2023年11月26日

80年代「ありふれた風景」撮り歩き

▲小田急電鉄デハ2221 藤沢 1980-12

思いついたときにフラリと出かけられる場所、最近は絶滅危惧種です。
写欲をそそられるようなデンシャは運用や撮影地をネットで調べ、朝早くに出発しないと到底無理。根っから出不精に拍車がかかっている管理人としては、カメラを持つ機会はめっぽう少なくなりました。

田舎高校を出て上京した1980年代、力を抜いて「ついで」に撮れるモノは山のようにあったハズ、しかし当然のように転がっている風景はいつの世でも疎かにしがちなもの。改めて考えると、目的地よりもそこに向かう途中で出くわすデンシャや駅風景の方が遥かに絵になっていたと思い知らされます。
・・・という訳で、本日はフィルムの狭間に写っていたコマの落穂拾いをしてみました。


▲西武線もバラエティ豊か 1980-12

先ずはこちら、東急世田谷線。
重たいカメラをいつも持ち歩いていた訳ではありませんが、出掛けの駄賃によく撮影していました。ちょうど70形の更新が終わる頃で、このデハ74を最後に全車張り上げ屋根になりました。その後ライトが腰に下がり、似ても似つかぬ姿になってしまいます。


▲上:山下 下:松原 いずれも1980-12

この日は世田谷線を2、3列車で切り上げて新宿に向かったようで、恐らくヨドバシカメラでも覗きに行ったのでしょう。

▲豪徳寺 1980-12

こちらは京王線。
引退の足音が聞こえてきたグリーン車こと2000系一派を見に行ったようです。当時の主役だった6000系はロクな記録がなく、未だに後悔しています。























地下鉄各線も、撮り逃したと臍を噛む路線の一つでした。
▲いずれも笹塚 1980-12

こちらは、江ノ電のタンコロこと100形目当てに出かけた折のスナップ。
時同じくして小田急1800系も最後の活躍をしていました。もう嫌になるほど見ていた「小田急顔」ですが、片扉の2200形だけは結構な頻度で写しています。
▲いずれも六会 1980-12

藤沢から少し歩いた場所で。吊掛け車は流石に力が入っています。

▲藤沢-本鵠沼 1980-12

西武線は中学・高校時代に最も縁遠かった路線。
池袋線・新宿線とも鉄研の友人にそれぞれの「マスター」がいましたから、彼らの尻についてよく撮り回っていました。この辺りも、今は埼京線が飛ばすようになり風景が一変しています。
▲いずれも西武新宿-高田馬場 1980-12

貨物機の最大勢力だったEF15も、淘汰の時代に差し掛かっていました。



▲いずれも新大久保 1980-12

一方の国鉄線、「思いつき」で行っていたトップは鶴見線でした。
よく鉄研メンバーで「午後の講義が休みだから、大川に行こう」という流れになり、多彩な電機がいた東海道貨物線と掛け持ちをしながら、夕方まで粘りました。
▲いずれも武蔵白石-大川 1980-12


▲八丁畷 1980-12

同じフィルムのスナップをもう少し。
大目玉の115系もいた中央線ローカル、貨物は茶色い機関車ばかり。今考えれば右を見ても左を見ても「ついで」というには勿体ないデンシャばかりでした。
▲新宿 1980-12

▲原宿 1980-12


▲西国立支区 1980-12

では、現在眼前にある「当たり前の風景」を記録しておきたいかというと、逡巡します。
うーむなデザインの車両に人のいない窓口、無表情に改札機を「ピッ」と通り抜けると、ホームはごついドアに視界を遮られ、そして乗客は皆手元のちっぽけな端末ばかり見ている。しかし、何十年か後にはそれらも懐かしい風景になるのでしょう。

20XX年、首都圏全駅の無人化が完了し、駅務は全てAIが制御する「ステーション・ネット」の監視下に置かれた。全国民にマイクロチップ埋設が義務化されたから、もう切符やICカードは必要ないし、改札機も姿を消した。

無人の電車が音もなくホームに滑り込むと同時に無機質な案内放送が流れるが、スピーカーからではなく超音波を用いた骨伝導システムだ。乗客らが手元の端末に夢中になっている姿は昔ながらで、少しほっとする。

いや待て、皆何か表情が変だ。目の前に座るスーツ姿の男は人間か、それともアンドロイド・ワーカーか。

▲大川 1980-12

2023年11月18日

遠州の強者時代


▲遠州鉄道モハ1+モハ2 遠州西ケ崎 1963年?

手元の古い記録から、本日は木造車が闊歩していた時代の遠州鉄道をアップしてみます。
管理人が私鉄デンシャを求めて全国を放浪するようになったのは1980年、既に遠鉄は湘南顔の30形ばかりで沿線も住宅地でしたから、足が向くことはついぞありませんでした。

84年夏だったか、国鉄浜松工場で機関車や事業用車の公開イベントがありました。
普段は食指の動かないこうした催しでしたが、展示の「目玉」だったED18にまんまと誘われて出向くことに。その道すがら、せっかく浜松まで来たからと西ケ崎まで往復、ED28始めデンシャを少々撮ってオシマイ、これが遠鉄との唯一の縁という体たらくでした。


▲無料のイベントにも拘らず多数が展示された。今はバカ高いのばかり

さて先ずはこちら、モハ1形。
1922年の電化開業時にデビューしたオリジナル車で、鈍重な印象ながら前面やドアのRが何とも優雅です。30形に追われる形で引退した後も、電機代用で70年頃まで生き残りました。


▲いずれも遠州西ケ崎 1963年?

垢抜けない湘南顔のクハ61は、遠鉄初の全鋼製車。
彼がモデルになってこの後の30形に影響を与えたと言われています。ナニワ工機の手になる相方、モハ15は事故に遭ったようで拉げています。


管理人世代だと遠鉄の象徴といえば、この30形。
機器流用車から完全新車まで1958-78年の長期に亘って製造され、最大勢力になりました。



モハ1形と同時期、1923年に登場したモワ200形。既にその任務をEDに譲り、引退久しいようです。


まだ小口の貨物輸送華やかなりし時代で、電機も当然在籍。
延べ3両がいたED21形はそれぞれ出自も経歴も違い、1号機は日本鉄道自動車製の自社発注機でした。

2号機は西武からやってきたお馴染みの東芝戦時設計形。
この他、今も工事用として生き長らえるED282がいました。福井鉄道に嫁いだお馴染みのED213(福井デキ3)はまだ遠鉄に入線していませんでした。

▲いずれも遠州西ケ崎 1963年?

ところで遠鉄といえば風変わりな切符を思い出します。
めっぽう目立つ赤数字を配したこの様式は、他に例がありません。地方私鉄共通ではなく、自社独自の「えんてつ」地紋を守る所にこの地の老舗としてのプライドを感じます。連絡切符もバラエティに富んでいました。
▲早くから金額式が採用された

▲連絡券も多彩



▲最後の硬券は第一通り駅


▲奥山線健在時は車補も賑やか

現在なら「ありがとう○○○」とお祭り騒ぎになるところですが、名の知れた軽便鉄道・奥山線の廃線時には無料の「しおり」が配布されて終了。何ともささやかなものでした。


▲当時としては珍しい公式の記念グッズ

2023年11月9日

1973年 宇都宮にて

▲EF1570 宇都宮 1973-7

デンシャに初めてカメラを向けて1ヶ月。
家から勝手に持ち出したカメラを自転車のカゴを放り込み、両毛線や東武佐野線を撮り回るのに慣れてくると、当然ながら他のデンシャにもシャッターを切りたくなってきます。そこで同級生らと策動、初の「遠出」をしようと週末に最寄駅に集合することになりました。

子どもらだけでの撮影行ですから、その緊張感と高揚感は学校の遠足など遠く及びません。生憎の雨模様ながら、先ずは見慣れたこちらからスナップ開始です。


▲佐野 1973-7

初の「遠征先」は宇都宮。
最寄駅から1時間ちょっとですから何てことはありませんが、小学生が自分らだけでプランを練って時刻を調べ、窓口氏から切符を買って列車に乗るには充分な行程でした。

先ずは15分だけ乗って栃木で下車。
当時の栃木駅は貨物ホームや側線のある広い構内を有し、黒い貨車があちこちに停まっていました。東武日光線はそこに間借りするように、片隅に慎ましく島式ホームが1本あるだけでした。
▲いずれも栃木 1973-7

乗換え駅の小山。
東北線の列車を待つ間、ホームからは色々なデンシャを眼にすることができました。ここの立食いスタンド「きそば」が廃業間際に大層な繁盛ぶりを見せたのは記憶に新しいですが、この頃はかけ蕎麦が1杯80円、天ぷらを載せると100円でした。

2枚目、401系の後ろにいるのは真岡線直通の10系キハでしょうか。
構内外れには日本製粉の工場があり、DD13がせわしく入換えをしている風景も見られました。


▲いずれも小山 1973-7

散々寄道をしながら、昼近くになってようやく宇都宮着。
東北線の主役、115系はまだ大目玉の天下でした。画面右から2番目のおじさんは赤帽でしょうか。

▲宇都宮 1973-7

初めて間近で見た特急は485系「ひばり」。
写り込んでいる人物は同行の同級生で、野球帽にトレパン(体育の授業に穿いていた)という出で立ちが当時の定番でした。

右から2番目の彼が構えているのは年代物の2眼レフで、上から覗くファインダーがえらく格好良く見えたのを憶えています。管理人のやつもそうでしたが、当時のカメラは露出もピントも勿論フィルム装填も全て手動。当時の鉄道少年はそうした道具をいつの間にやら使いこなしていたのでしょう。



▲いずれも宇都宮 1973-7

烏山線のキハ10。
ミニスカにパンタロン(→死語)と、乗客の服装に時代を感じます。



5番線ホームからは宇都宮運転所に屯する電機を眺めることができました。EF58やEF15、EF65がうんざりするほどやって来る時代でした。





5番線の上野方からの風景。
既に一線からは外れていたものの、荷物列車や臨時急行にまだまだ活躍していたEF56やEF57が連なって昼寝をしていました。

▲いずれも宇都宮 1973-7