2024年6月30日

最後の旅 見送る雨

 ▲クモハ11244ほか 立川 1980-12

南武線・浜川崎支線で孤塁を保っていたクモハ11+クハ16コンビ。
事業用を除けば鶴見線・大川支線のクモハ12と共に最後の17m国電でしたから、田舎高校を卒業して上京するや、何度も出向きました。肩肘を張らなくとも、思いつきで行ける気軽さもありました。

▲上:川崎新町-浜川崎 1980-5 下:八丁畷-川崎新町 1980-11

こちら引退を間近に控えた頃のクモハ11。
片隅にいた事業用のクモハ40033も、今回運命を共にすることになります。当時は国鉄の電車区といえども一声かければ直ぐに許可をくれる時代、自由に構内を動き回ることができました。


▲いずれも中原電車区 1980-12

それから間もなくして、国電マスターの友人から廃車回送があるとの報。
授業を適当にあしらい、午後から駆けつけます。走行シーンには間に合わず、立川の側線で一休み中の姿を捉えました。


▲立川 1980-12

中央線上りホームに転線し、ここでも小休止。
後輩格の101系と隣り合わせ、何を思うかクモハ11。回送1日目はこれを見送って終了です。

▲いずれも立川 1980-12

回送2日目、前述の友人と一緒に五反田のホーム先端で構えます。大船工場へ向かうこの日は、朝から氷雨の舞う寒い日でした。


▲五反田 1980-12

この日は豊田電車区のクモハ40073も加わり、6連の長大編成に。壮観な眺めですが、二度と戻って来られない死出の旅でした。





吹き込んでくる雨粒も厭わず、見えなくなるまでファインダーから顔を離さずにいました。
▲いずれも五反田 1980-12

さて、品川まで追い掛けます。
当時は定期列車がほとんど停まらなかった9番線ホームにいました。
▲品川 1980-12

最後をここで見送りました。
さすがに同業者が集まっていますが、ざっと十数人。今なら規制線が張られて毎度お馴染みの狂乱騒ぎになるところでしょうか。

▲いずれも品川 1980-12

行きがけの駄賃というには今だと勿体ない話ですが、余ったフィルムの使い道はいくらでもあった時代。EF15も、初期ナンバーから数を減らしつつありました。


▲原宿 1980-12

こちらの駅も、手前のレールを様々なデンシャが飛ばすようになり、様相が一変しています。





▲いずれも新大久保 1980-12

最後の旅もこうして終わりました。
「廃車回送」と一言で片付けるのは簡単、しかし自らの足で最後のレールを踏む心境は如何ばかりだったでしょうか。これを見送るような涙雨の一日になりました。

▲浜川崎 1980-5

2024年6月23日

四季の谷汲線・早春~510の晴れ舞台



  ▲名古屋鉄道モ513+514 長瀬-谷汲 2001-2

毎月18日は谷汲山華厳寺の「命日」に当たり、参詣客用に列車が増発されていました。
モ750形2連やモ510形が出動することもあり、中でも2月はこの地の一大行事「豊年祈願祭」が開催され、その確率は一気に高まります。

最後の春を迎えた2001年2月18日は日曜日。
これを外す手はなく、モ510登場は必然だろうと勝手に納得して、朝一番の「のぞみ」を奮発です。まずは前日に小手試し、お馴染みになったポイントをあちこち徘徊しました。
▲更地-北野畑 2001-2

半月前に訪れた時は警報が出るほどの大雪でしたが、この日は麗かな春の陽気。
もしやと雪を期待するも、それどころか早くも田起こしが始まっています。同業者に会うこともなく、線路端をノンビリと歩きました。
▲いずれも赤石-長瀬 2001-2

▲長瀬-谷汲 2001-2

すっかり馴染みになった黒野の安宿に投宿した翌日は、待ちきれずに明け方から行動開始。朝一番の単行電車には既に「豊年号」なる愛称板が掲示されていました。
▲更地 2001-2

北野畑で構えていると、同業者が集まり出しました。
これはもう間違いないと彼らと一緒に待つことしばし、本命がやって来ました。こちらも「豊年まつり号」と書いた手作り感満載のサボを付けています。
▲北野畑 2001-2

この日はモ510が5往復も運行。
たまには変化球アングルも試してみたいところ、しかし結局無難なド定番ポイントに落ち着きました。


▲赤石-長瀬 2001-2


▲長瀬-谷汲 2001-2

▲赤石-長瀬 2001-2

午後からはモ750の2連も登場。
この頃モ750形は3両だけの慎ましい陣容で、残り1両は揖斐線で動いていますから予備は1両もいなかったことになります。
▲赤石-長瀬 2001-2

最後は根尾川の河原で見送り、満足顔で今回の旅を終えました。


▲北野畑-赤石 2001-2

谷汲へは滅多に顔を見せないモ510の出動とあって、さすがに沿線には同業者も多数。
しかし三々五々それぞれに構え、場所の取り合いも怒号が飛び交うことも「追っ駆け」のクルマに道を占拠されることもありませんでした。

廃止当日やその直前の殺伐とした騒ぎの渦中には身を置きたくない管理人。
それにしては珍しく、廃止の足音が近づいて来ても何度か出向くことになりましたが、それはそうした安心感のお蔭というか、「普段着」のまま生涯を終えようとする姿を見届けたいと思ったからかも知れません。
▲更地 2001-2

2024年6月16日

大阪の昭和デンシャを追う その9



 ▲京阪電鉄 大和田 2024-4

さて、明け方から散々歩き回った2日目も終盤戦。
南海6001編成に会えて燃え尽き症候群になったと思いきや、名店のとんかつ定食で見事生き返りました。いったん岸里玉出駅前まで戻ります。

訪れる日や時間帯によるのでしょうが、この駅はいつ来ても無闇にだだっ広く、森閑として誰もいない。一種独特の雰囲気があります。一大ターミナルの近くでこれだけ人口密度の低い駅というのも、あまり例がないでしょう。南海本線と高野線が分岐し終わった辺り、えらく離れた位置にホームがあるので、余所者はいつも迷ってしまいます。


▲この日もお世話になりました 2024-4 

さて、この後は予定通りこちらの商店街を目指します。
玉出口の改札を出ると目の前に「玉出本通商店街」のアーチがあり、広めの通りが延びていました。こちらは人通りも新しい店も多く、そこそこ活気があります。
▲玉出本通商店街 2024-4

しかし、枝分かれする玉二商店街はシャッターばかりが目立ちました。
店舗跡がスッポリ空地になっていたり、真新しいグループホームができていたりと、商店街としての役目は終えているように見えました。かつては2階に生活の場があり、ベランダから子どもらが顔を覗かせていたのでしょう。


▲いずれも玉二商店街 2024-4

今にも泣きそうな空模様ながら、明るいうちから安宿にしけ込む訳にはいきません。
しぶとく地下鉄を乗り継いで、次はこちらです。この何十年、支線の旧車以外は失敬してきた近鉄ですが、南大阪線をマトモに撮るのもこれが初めてでした。6020・6200系も早いものでは既に齢50年超、大所帯ですから簡単に世代交代とはいかないのでしょうが、驚異的な長命ではあります。

▲いずれも今川 2024-4

暗くなりまで粘り、これにて終了。この日も北浜の安宿に向かいます。

▲大阪阿部野橋 2024-4

明けて翌日は予報どおりの大雨。
流石にモチベーションは急降下ですが、このまま大人しく帰るのも癪で阪急電車を一覗きしてからにしました。
▲十三 2024-4

十三のホーム先端に陣取り、安直に雨宿りしながら構えます。
数を減らしている5100・5300形ですが、ラッシュ帯は結構な頻度で顔を見せました。



▲いずれも十三 2024-4

流石に長居はできず、早々に退散。
ついでの感ありながら、隣の駅で初めて降りてみました。

▲中津 2024-4

降りた目的は駅から徒歩5分の中津商店街。
住宅街の中にポツンと入口が立っていました。

戦災を免れた商店が残っているとの情報を得て行ってみましたが、おそらくこちらの(元?)花屋でしょうか。アーケードは骨組みだけを残して雨晒しで、時間帯のせいなのでしょうが開いている店も4つほど。しかし駅近のお蔭かリニューアル工事中の店もあり、「生きている商店街」という印象です。


▲いずれも中津商店街 2024-4

傘を持ちながらではこちらも長居できず、駅に戻ります。

もちろん有人駅だし乗降客はケタ違いながら、階段の袂にいると何となく鶴見線の国道駅に通じる雰囲気。デンシャの発着時だけ寸刻の喧騒が流れあとは静まり返る、その繰り返しが楽しくつい居座ってしまいました。ガード下には居酒屋や洋菓子屋がありますが、果たして営業しているのでしょうか。

▲いずれも中津 2024-4

昭和臭満点の商店街や街並みに入れ込んでいる証か、最終回は何だかデンシャ以外のカットばかりになってしまいました。

ごくありふれた風景として歯牙にもかけなかった、1960-70年代の電車も駅も回りも施設も、いつの間にやら半世紀超が経過。
「知らぬうちに消え失せてしまった」と後悔する愚を繰り返さない意味も込めて、最近は眼に止まったモノを片っ端から「これはモノクロにしたら絵になるかも」とシャッターを押す癖がついてきました。枚数など気にする必要のないデジタルの恩恵もあるのでしょうが、新しい電車や駅や街並みが薄っぺらで無機質で冷たいモノになった裏返しではないか・・・と思ったりします。


▲いずれも天見-紀見峠 2024-4