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2024年10月16日

80年代「ありふれた風景」撮り歩き その3

▲京浜急行電鉄デワ45 金沢文庫 1981-6

本日は「80年代・ついでに撮りました」シリーズその3をアップしてみます。

貧乏学生も2年目に突入、すっかり板に付いた1981年。
相変わらず財布に余裕はないものの時間だけはありましたから、何かにつけてヨドバシカメラの「詰め替えフィルム」を入れたオンボロ機片手に、東京のデンシャをあちこち撮り回るようになっていました。

こちらは沿線の友人宅にしけ込む際の撮影だったでしょうか。
初体験だった初代600形「快特」の走りと、中間駅を減速もせずお構いなしに通過するシーンにえらく衝撃を受けたのを憶えています。





ダルマさん電車もまだ新参者。
側面の塗色もデビュー当時のままでした。京急伝統の「片扉・オデコ一灯」も、これ以降のメンバーから潮目が変わってきます。
▲いずれも能見台-金沢文庫 1981-6

金沢文庫に隣接した車庫。
道路からお気軽に観察できるアリガターイ立地です。振り返れば東急車両製造(現:総合車両製作所)の工場を覗き見ることもできました。

デト30形は木造車の改造名義でお隣の東急車両で製造、1989年に後輩格のデト11・12形が登場するまで工事用や牽引車として活躍します。現役時代と変わらぬ姿のデワ40形もお昼寝中でした。

▲いずれも金沢文庫 1981-6

学生時代、所属していた鉄研には私鉄各社をテリトリーとする「クセ強マスター」がそれぞれいましたから、彼らから撮影ポイントを聞いたり或いは難しい講釈を拝聴したりしながら、それまで無知蒙昧だった大手私鉄に開眼したものでした。

西武線は時あたかも2000系が版図を拡大、在来種、特に451系が引退したり第二の職場へ散ろうとする頃。上京するまで無縁だった西武線を随分と記録に残せたのも、マスターのお蔭でした。

▲西所沢 1980-5


▲撮影場所失念・・・ 1980-5

▲元加治 1980-5

クハ1411形最晩年の頃。
既に中間に入ってしまい、特等席も特等でなくなっていました。

▲いずれも1981-2

東武鉄道は73・78系を追って結構な頻度で出向いています。
標的は専ら彼らや5700系、そしてバラエティ豊かな電機でしたが、ウンザリするほどやって来た8000系一派にももう少しカメラを向けておくべきでした。


▲いずれも小菅 1980-5



▲いずれも曳舟 1980-4

国鉄電機の中では驚異的な長命を保ったED16。
最後の縄張りだった青梅線にもEF15や64が配備され始め、彼らの牙城もいよいよカウントダウンに入ります。

▲いずれも拝島 1981-7

京王線も、腰を入れて撮ったことはないけど「何かのついでスナップ」を稼いだ路線のひとつです。しかし写っているのはグリーン車こと1000・2000系列ばかりで、1000回以上は乗っているであろう3000系や6000系のコマがほとんどない体たらくでした。
▲いずれも明大前-下高井戸 1980-12

少し前、長く勤めた職場を去る頃から、首都圏の私鉄デンシャ現役世代も記録しておこうと思い立ち、早起きする日が増えてきました。できれば昭和の匂いが残る駅風景とのコラボを狙おうと安物デジカメ片手に歩き回るも、やはりそう簡単にはいきません。

それに、平成半ば以降に生まれたデンシャには「どうにも受け入れ難い」デザインも目立ってきました。気に食わなければ速攻で削除できるのがデジカメなのに、シャッターを押す気にすらなれない、というのも困りモノです。

視界に入るものなら分け隔てなく、何にでもカメラを向けていた純真無垢な鉄道少年マインドも「遠くなりにけり」ということなのでしょう。

▲飯能 1980-5

2024年3月30日

80年代「ありふれた風景」撮り歩き その2

▲東京急行電鉄デハ3478ほか 蓮沼-蒲田 1981-2

田舎高校を出て上京して半年、4畳半下宿の貧乏学生生活も板に付いてきた頃。
今考えると、思いつきで被写体になり得るデンシャは山のように転がっていた時代、しかし残念ながら腰を据えて撮り回ったのは数える程度という体たらくです。あまりにも当たり前すぎて被写体にすること自体考えなかった上に、首都圏の通勤車にカメラを向ける者が殆どいなかった事情があるかも知れません。

数少ない記録は何かの道すがらか、所属していた鉄研の同期生に誘われて出向いた時の成果物くらいながら、塵も積もればナントカで結構な枚数が貯まってきました。という訳で、先日に続き第二弾をアップしてみます。


▲小田急電鉄デニ1303 東林間-中央林間 1980-5

先ずは京急です。
鉄道少年時代から縁が薄く、品川でスナップした程度の記録しかありませんでした。この時は沿線の鉄研メンバー宅に転がり込み、残り少なくなった吊り掛け車を撮り歩いてみました。

デハ500形は戦後初の2扉セミクロス車にして赤・黄ツートンカラーの嚆矢。管理人世代に馴染み深い湘南顔も、この形式から採用されました。



▲上:屏風ヶ浦 下:京浜富岡 いずれも1981-2

デハ500形の通勤車版・デハ400形は1953年にデハ600形(初代)として登場。これに限らず、京急は同形式名で2代・3代がいるので非常にヤヤコシイです。

▲横浜 1981-2

次は東急です。
地上時代の田園調布駅はどこか長閑な雰囲気。8090系は登場したばかりで、これが秩父や富山地鉄を走ることになろうとは想像もできませんでした。


▲いずれも田園調布 1981-2

同じ東急でも、デハ3450形を始め往年の名車が第一線で闊歩していた目蒲・池上線は結構な数をこなしています。もちろん旧型車オンリーですから、1時間も粘るとフィルム1本くらい直ぐ終わるし、それ以前に直ぐに飽きてしまう。たった1編成のデンシャのために丸1日かける今とは比べるべくもない贅沢さでした。


▲いずれも蓮沼-蒲田 1981-2

東横線では6000系やデワが最後の活躍。
沿線風景はどこも全く別物に変貌してしまいましたが、この辺りは特に喧しいのではないでしょうか。6000系の独特のモーター音、録音しておけば良かったと後悔しきりです。


▲いずれも田園調布-多摩川園 1981-2

西武線は赤電全盛期。
一方で貨物やクハ1411形が終焉を迎えようとする頃で、西武線マスターの同期生の尻にくっ付いてはあちこち出没していました。
















▲上:東伏見-武蔵関 1981-2 中・下:いずれも西所沢 1980-5

一方の国鉄は、ちょうど旧型国電が終幕を迎えようとする頃でした。
もう「ありふれた風景」ではなかったですから、上京した1980年から鶴見線・大川支線や南武線・浜川崎支線、配給電車などはかなりの頻度で撮っています。

こちらはその年の暮れ、浜川崎支線17m車の廃車回送。
同じく引退する中原区や豊田区のクモハ40を従え、自らの足で死出の旅に向かいました。
▲立川 1980-12

80年代「ありふれた風景」撮り歩き その1 →→→ こちら

当たり前すぎて気にも留めなかった風景、当たり前でなくなる日が必ずやって来るのは自明の理。しかし、最近これがやたら早く訪れるようになったと感じています。20年後に生きているかどうかは霧の中ですが、果たして「今の当たり前」はどう変貌しているでしょうか。
▲いずれも大崎 1980-5

2023年11月26日

80年代「ありふれた風景」撮り歩き

▲小田急電鉄デハ2221 藤沢 1980-12

思いついたときにフラリと出かけられる場所、最近は絶滅危惧種です。
写欲をそそられるようなデンシャは運用や撮影地をネットで調べ、朝早くに出発しないと到底無理。根っから出不精に拍車がかかっている管理人としては、カメラを持つ機会はめっぽう少なくなりました。

田舎高校を出て上京した1980年代、力を抜いて「ついで」に撮れるモノは山のようにあったハズ、しかし当然のように転がっている風景はいつの世でも疎かにしがちなもの。改めて考えると、目的地よりもそこに向かう途中で出くわすデンシャや駅風景の方が遥かに絵になっていたと思い知らされます。
・・・という訳で、本日はフィルムの狭間に写っていたコマの落穂拾いをしてみました。


▲西武線もバラエティ豊か 1980-12

先ずはこちら、東急世田谷線。
重たいカメラをいつも持ち歩いていた訳ではありませんが、出掛けの駄賃によく撮影していました。ちょうど70形の更新が終わる頃で、このデハ74を最後に全車張り上げ屋根になりました。その後ライトが腰に下がり、似ても似つかぬ姿になってしまいます。


▲上:山下 下:松原 いずれも1980-12

この日は世田谷線を2、3列車で切り上げて新宿に向かったようで、恐らくヨドバシカメラでも覗きに行ったのでしょう。

▲豪徳寺 1980-12

こちらは京王線。
引退の足音が聞こえてきたグリーン車こと2000系一派を見に行ったようです。当時の主役だった6000系はロクな記録がなく、未だに後悔しています。























地下鉄各線も、撮り逃したと臍を噛む路線の一つでした。
▲いずれも笹塚 1980-12

こちらは、江ノ電のタンコロこと100形目当てに出かけた折のスナップ。
時同じくして小田急1800系も最後の活躍をしていました。もう嫌になるほど見ていた「小田急顔」ですが、片扉の2200形だけは結構な頻度で写しています。
▲いずれも六会 1980-12

藤沢から少し歩いた場所で。吊掛け車は流石に力が入っています。

▲藤沢-本鵠沼 1980-12

西武線は中学・高校時代に最も縁遠かった路線。
池袋線・新宿線とも鉄研の友人にそれぞれの「マスター」がいましたから、彼らの尻についてよく撮り回っていました。この辺りも、今は埼京線が飛ばすようになり風景が一変しています。
▲いずれも西武新宿-高田馬場 1980-12

貨物機の最大勢力だったEF15も、淘汰の時代に差し掛かっていました。



▲いずれも新大久保 1980-12

一方の国鉄線、「思いつき」で行っていたトップは鶴見線でした。
よく鉄研メンバーで「午後の講義が休みだから、大川に行こう」という流れになり、多彩な電機がいた東海道貨物線と掛け持ちをしながら、夕方まで粘りました。
▲いずれも武蔵白石-大川 1980-12


▲八丁畷 1980-12

同じフィルムのスナップをもう少し。
大目玉の115系もいた中央線ローカル、貨物は茶色い機関車ばかり。今考えれば右を見ても左を見ても「ついで」というには勿体ないデンシャばかりでした。
▲新宿 1980-12

▲原宿 1980-12


▲西国立支区 1980-12

では、現在眼前にある「当たり前の風景」を記録しておきたいかというと、逡巡します。
うーむなデザインの車両に人のいない窓口、無表情に改札機を「ピッ」と通り抜けると、ホームはごついドアに視界を遮られ、そして乗客は皆手元のちっぽけな端末ばかり見ている。しかし、何十年か後にはそれらも懐かしい風景になるのでしょう。

20XX年、首都圏全駅の無人化が完了し、駅務は全てAIが制御する「ステーション・ネット」の監視下に置かれた。全国民にマイクロチップ埋設が義務化されたから、もう切符やICカードは必要ないし、改札機も姿を消した。

無人の電車が音もなくホームに滑り込むと同時に無機質な案内放送が流れるが、スピーカーからではなく超音波を用いた骨伝導システムだ。乗客らが手元の端末に夢中になっている姿は昔ながらで、少しほっとする。

いや待て、皆何か表情が変だ。目の前に座るスーツ姿の男は人間か、それともアンドロイド・ワーカーか。

▲大川 1980-12