▲秩父鉄道デキ7 熊谷 1974-3
1974年春の一日、中古で買ってもらった「ヤシカエレクトロ35」の練習を兼ねて熊谷へ。
当時の熊谷駅は秩父鉄道の一大基地で、広い構内に電車、電機と共に雑多な貨車群がひしめいていました。以前から遠目に見える「エンジ色の電車」が気になっていて、間近で見るのがこの日の目的です。
車両基地とはいえ入口らしきものがなく、守衛もいなければ柵もなかったのでズカズカと入って行きます。そこら辺は実に大らかな時代でした。
まずはこちらから。
まだ第一線で動いていた、1922年WH製デキ2。同タイプの電機としては大型の部類です。
1925年EE製デキ7も活躍中。全国に多くの仲間がいたお馴染みの「デッカー」です。
相方のデキ6は当時既に休車中でした。
見慣れない貨車もぞろぞろいましたが、撮ったのはこれだけ。
今考えるともったいないですが、限られたコマ数ですから貨車まで手が回りませんでした。
さて、問題の「エンジ色の電車」です。
正体はデハ100形の一派であるクハニ29(初代)です。
100形は木造車の鋼体化車を主とした、当時の一大勢力でした。このクハニ29も戦後間もなく鋼体化されたものの1960年代の車体更新の対象から外されて、そのまま放置、廃車となりました。
駅に戻って、秩父のホームを「間借り」していた東武熊谷線。
4番線のド真ん中に車止め付の土盛りがあり、羽生方を秩父、三峰口方を東武が使っていました。
東武のキハはこの前年にライトがブタ鼻に改造されています。
当時の最新鋭、デハ500。自社オリジナル車だけの時代でした。
▲いずれも熊谷 1974-3
新製間もないデキ502。当時は羽生まで一般貨物が乗り入れていました。
▲羽生 1974-3
秩父鉄道の良き時代の風景ですね。
返信削除この頃は電気機関車もぶどう色だったのですね。
唯一ほかされたクハニ29は見ずじまいに終わりました。
chitetsuさん
返信削除当時は身近すぎて意識していませんでしたが、本当にバラエティに富んでいました。
クハニ29ですが、この数ヵ月後には窓ガラスや妻面の桟がなかったり荒れ始めたそうで、そのままスクラップになったようです。
東武キハの存在は大学に入ってから、初めて知りました。
返信削除もうそのころは、クリーム一色のつまらない色になってました。
やっぱ、旧塗装の方がいいなぁ。
管理人さんは、旧型電機中心の記事といっていますが、
電機以外の記事も楽しく拝見させていただきまーーす。
maru-ha
maru-haどの
返信削除やはり東武カラーはいえば「オレンジとベージュ」ですよね!
キハもこの後間もなくクリームになってしまいました。
「旧型電機以外」も随時アップする予定ですのでお楽しみに~(気長に、ですが)
EE製デキ7は廃車前に運行されたさよならイベント列車を撮りに行きました。
返信削除その日、お花畑で待っていたら地元からやって来た東武8000系が現れてがっかりしました。
それから、東武熊谷線はキハがクリーム一色になってから何度か訪れました。
新幹線解消前の熊谷駅は中間改札なしで乗り換えできた気がします。(記憶があやふやですみません)
実は、このキハについて気になっていることがあります。
側窓がいわゆるバス窓で下段窓はアルミサッシでしたが、同形とされる加越能→鹿島鉄道キハ431形の下段窓は小田急1800形のようなHゴム支持のメタルサッシでした。
朝日新聞社発行の世界の鉄道’68の写真ではHゴム支持のメタルサッシのように見えます。
ライトの2灯化や塗装変更はいろいろなところで解説されていますが、アルミサッシへの改造の記述はどこにも見当たりません。
どうなっているのか謎です。
三等急電さん
返信削除デキ7のさよなら運転、私も行きました。当時は電機が電車を牽引するイベントは珍しかったです。途中から貨物列車に付け替えたりと、粋な計らいもありました。
熊谷駅は何度となく覗いていますが、いつも難なく入れたので中間改札はなかったと思います。
東武キハ2000への考察、興味深く拝見しました。
下段窓がアルミだったとはついぞ意識したことがありませんでした。電車用を流用できないできないサイズですから、自社改造ではなくわざわざ外注したのでしょうか。改造の理由(老朽化にしては早い?)も含めて、謎ですね。