2019年2月26日

デンシャがとおる その3・大通りを伸し歩く

▲福井鉄道モハ161-2+161-1 裁判所前-田原町 1995-8 

鉄道線の大型車が路面を闊歩するという、この痛快なシーンはかつて大手を始め全国各地で見ることができましたが、現在は絶滅状態。特に地方私鉄のそれは格段に魅力的ながら、管理人が体感できたのはここ福井と新潟交通の2社だけでした。 
 
さて、京福永平寺線で酷暑を満喫した後は(→→ こちら)福井駅前に投宿、翌日も薄明から出動します。
この日の最大の狙いは160形。この頃は神明-田原町に1往復(うち片道は回送)だけ設定されており、迷った挙句やはり路面区間で捕えることにしました。
▲モハ141-1+141-2 1995-8 田原町 
 
裁判所の高雅な建物をバックにまずやって来たのは80形。
南海タマゴ形木造車を鋼体化して誕生した形式ですが、その後冷房化にカルダン駆動化、台車交換と新車に近くなっています。

▲いずれも市役所前-裁判所前 1995-8
 
車に被られずに160形を確実に捕えるには歩道橋しかありませんが、電車通りにあるのは田原町近くのたった一か所です。ここで陣取り、しばらく粘ることにしました。
 
先ずは福鉄の顔、200形。
この頃はついでに撮っていた感ありの200形でしたが、静岡鉄道から300形がやって来てからは専らローカル運用に就いていました。
140形(141・142編成)は旧長野電鉄300形のモハと名鉄900形のクハという異色の組み合わせです。1978年に誕生以来、120形に代わってすっかり馴染んでいるようでした。
 
レールを軋ませながら、2本立て続けにやって来ました。この日はリバーサルとモノクロの2台体制、レンズを取替え引っ替えしながら右往左往です。
▲いずれも裁判所前-田原町 1995-8

田原町を発車するモハ142編成。
年季の入ったこの駅も、現在は様相が一変しています。
▲田原町 1995-8
 
車に呑み込まれるように去って行きました。
▲いずれも裁判所前-田原町 1995-8
 
・・・とここで枚数が行ってしまいました。
次回に続きます。
▲裁判所前-田原町 1995-8

2019年2月18日

ジーメンスを追った日々 その3・空っ風のデキ

▲上信電鉄デキ1 千平-下仁田 1994-3

気に入った路線に入れ込み、四季折々の違った表情を切り取ろうと通い詰める。
そんな傾向は誰にもあると思いますが、これが一段と強かった管理人。
もうちょっと公平に各路線を訪問すれば良いものを、一期一会もあれば何十本ものコマ数を稼いだ路線もありと、かなり偏重気味になってしまいました。

訪問数断トツは名鉄揖斐・谷汲線、次いで上田交通、新潟交通や野上電鉄、琴電・・・やはりというべきか、戦前型のいる電化路線ビイキになりました。
▲上田交通モハ5372 八木沢 1985-1
 
▲新潟交通モハ16 灰方 1988-5

さて、今回はそんな中から「デキ詣で」の病魔に襲われた頃の上信線からお送りします。

赤城おろしが吹き荒ぶ早春のこと、この日は馬庭を出てすぐの鏑川橋梁から開始。まずはこの頃よく見かけた旧西武の451系のデハ100形です。鋼体化車ら強者が引退してからは、デキの露払い的な扱いになっていましたが、今となっては撮っておいて正解でした。
そして本命。
遭遇率No1の1号機が辺空のトキ3両を従えてやって来ました。
▲いずれも馬庭-吉井 1994-3
 
次の電車で追い抜きます。
メインの2回目はド定番、千平-下仁田の線路際に陣取りカメラ2台体制で迎え撃つことにします。デキは直ぐに追いかけてくるので、セット完了と思いきや「ピー」と甲高いホイッスルが聞こえて来ました。

全体的に単調な上信線にあって、山峡の雰囲気が満喫できるこの区間は、訪問の度に違う表情を見ることができました。
▲いずれも千平-下仁田 1994-3
 
撮り終えるや、碌に機材を片付けぬまま脱兎のごとく下仁田駅へ。
目当ては勿論入換え風景です。
高崎行電車をやり過ごし、やおらデキが動き出すと構内を行ったり来たり・・・ポイントの切換も楽しく、小1時間の作業は見ていて飽きません。
▲いずれも下仁田 1994-3
 
さて入換えが終わると、今度は高崎行に乗って先回りです。
上り列車は逆光気味になりますが、3回目は神農原近くで狙うことにしました。
カメラを持ち替えて、今度は流し撮りで決めます。
▲いずれも神農原-南蛇井 1994-3

またまた次の電車に乗車、吉井で追い抜きます。

さて「オマケ」的ながら締めはこちら、根小屋。試しにここでも流してみますが、点検蓋が向こう側にあるデキ1では側面が反射せず、せっかくの斜光線も生かせません。

▲ノッペリになりました いずれも南高崎-根小屋 1994-3
 
相変わらずの空っ風の中、デキを見送ります。
▲南高崎-根小屋 1994-3
 
→→ ジーメンスを追った日々 その1その2

無事4本を捕えて終了。
委託のおばちゃん駅長と家路を急ぐ子らをフレームに入れながら、帰りの電車を待ちました。
▲いずれも根小屋 1994-3

2019年2月11日

一枚のスナップから その4・あと5年の妄想

▲越後交通クハ104 長岡 1974-8

あと10年、いや5年早くカメラを持ち始めていれば、あれもこれも撮れたのに・・・という叶わぬ妄想は、鉄道好きならずとも一度は抱いたことがあるのではないでしょうか。

全てのデンシャが珍しかった鉄道少年時代、限られたフィルムで眼につくモノを片っ端から撮っていたので、1デンシャにつき1枚が関の山、それきり一期一会になってしまうことが多々ありました。
・・・という訳で、今回は「あと5年遅くまで残っていたら」四方八方から撮りたかった電車たちです。

上毛電鉄は「いつでも行けるから・・・」とノンビリしてしまい、碌に記録できないうちに世代交代が終了、何度臍を噛んだか分からない路線。このデハ81も1978年引退ですからいくらでもチャンスはあったハズですが、これ1枚きりの体たらくでした。
▲大胡 1974-3

長電モハ401・411形は東武の「デッカー」が前歴。
初めて信州入りしたこの日、朝からあちこち徘徊して帰り際にスナップしたのがモハ411でした。屋代で彼を見たのはこれが最初で最後でした。
▲屋代 1974-3

北恵那鉄道も、昼寝中の電車たちを瞥見してオシマイでした。
▲中津町 1976-7

銚子電鉄デハ201は、京成電鉄が手持部品を組み合わせて作った唯一無二の電車。現在なら一日中追い回しているところでしょうか。
▲仲ノ町 1975-10 

地元東武では何と言っても戦前形東武の代名詞、54形。
最後の3編成6両は館林に集結していましたが、初めてカメラを持った半年後、ひっそりと姿を消して行きました。
▲いずれも館林 1973-7

2019年2月6日

一枚のスナップから その3・眠れる名作の発掘

▲茨城交通茨城線キハ2・ケハ401 石塚 1961-12
 
最近、ヤフーなどで古いフィルム原版の出品を見かけることが増えてきました。
データ化が完了して不要になった、故人の資産を家族が処分・・・などなど事情は様々だと思いますが、その多くはよくある車両中心の記録です。

しかし、少ないながら管理人にとって垂涎の世界・1950-60年代のローカル私鉄に出会い、初めて見るアングルや撮影地に「眼からウロコ」の時もありました。

写真はメンコ集めのように個人で蒐集するものではなく、見てもらってナンボ。
・・・という訳でこのまま管理人が死蔵させるには勿体ない、印象に残ったカットをいつくかアップしてみたいと思います。

まずこちらは1964年10月撮影とメモされた福島交通軌道線。
▲モハ1108 本内停留場 1964-10

こちらは全線が健在な頃の茨城交通茨城線です。
▲モハ2・ケハ401 上水戸 1961-12
 
木造単車が伸し歩いていた頃の名鉄岐阜市内線。背景の車も時代を感じさせます。
▲モ15 長良橋 1965-10 (以上いずれも撮影者不明)

・・・とここで複雑な心境になってきます。
多くの眠れるフィルム資産が個人の手から手に渡り歩くうちに散逸し、挙句に消滅するのでは、と危機感を抱く管理人。一方で原版の劣化も厳しく、これらの貴重な記録を公的に遍く保護する術はないものか・・・と考え込んでしまいました。
▲見事ビネガー・シンドロームに罹患したフィルム 被写体は1964年の蒲原鉄道

2019年2月2日

一枚のスナップから その2・地方私鉄撮り始め

▲上信電鉄デハ202 高崎 1974-12
 
初めてデンシャにカメラを向けてから2か月、東武や両毛線以外も見てみたいものと向かったのは高崎。上信越線の特急や電機を始め初見参ばかりでしたが、ここで眼を奪われたのがピンク色にラインの入った上信の電車たちでした。

当時の鉄道誌といえば国鉄車偏重で、私鉄と言えば大手の新車くらい。
雑誌で見慣れた彼らを自分の眼で確認することにも感激しましたが、初めて見る私鉄デンシャには新鮮な衝撃を受けました。
これが地方私鉄との出会いだったのかも知れません。

ファーストショットはこちら、0番線ホームからのデハ200形・クハ301でした。
▲いずれも高崎 1973-7
 
奥では最古参デハ11やED316が入換中で、「あの青いヤツなんだろう」などと同級生らと雁首揃えて眺めるも、中々近付いてくれませんでした。
▲高崎 1973-7
▲再会なったED316 1974-12