2020年7月31日

「510」の走った日 その2

▲名古屋鉄道モ513 新岐阜駅前 2000-11

1926年生まれのモ510形は名鉄では勿論のこと、当時としては全国でも最古参。
電機も含めれば弘南鉄道のED22やED33らと同世代になりますが、機器などが更新されているとはいえ、日々稼働するデンシャとしては驚異的な長命です。

1992年、それまでのスカーレット単色から往年のツートン塗装、しかも67年の市内線乗入れ開始時の塗分けに変わった時は衝撃を受けました。
それからというもの、単なる「古いデンシャの一つ」だったのが俄然ウエイトが上昇、月イチの谷汲詣でに一層の拍車が掛かり、改めて塗装の影響力に感じ入ったものでした。

▲旦ノ島-尻毛 2000-11

▲千手堂 2000-11

▲西野町-早田 2000-11

▲記念切符の絵柄にもなりました

さて午後便の最初は下方駅近くの藪川橋梁です。
尻毛橋と共に揖斐線では数少ないポイントで、ここで2本粘ることにしました。
こちらも背後の高圧線が目障りですが、これを除ければ平凡ながら卒のない画ができます。
折り返しの黒野行は土手に上がってみました。
川面に映るシーンを狙ってみるも、結果は今一つ。
▲いずれも政田-下方 2000-11

晩秋の陽は短く、シャッターも稼げなくなってきたので最後の1往復は新岐阜駅前でのスナップです。電停ホームの先端で危なっかしく待っていると、車や人を掻き分けながら至極ゆっくりとやって来ました。

レールがなくなったこの通りもご無沙汰していますが、現在はどうなっているでしょうか。
▲いずれも新岐阜駅前 2000-11

前後左右から、改めて睨め回します。
▲いずれも新岐阜駅前 2000-11

車掌さんが手差しのサボを入れ換える風景も魅力の一つ。
やたらボーダーの太いダボシャツ鉄ちゃんも構えていますね(笑)。
・・・このカット↓↓を撮っている私でした(爆)。

同行の悪友に「ちょっと持ってて」とサブカメラを預けたのが運のツキでした。
▲いずれも新岐阜駅前 2000-11

2020年7月23日

「510」の走った日 その1

▲名古屋鉄道モ513・571 新岐阜駅前 2000-11

月イチペースの「谷汲詣で」が始まった頃、この日は晩秋らしい風景を当て込んで長瀬-谷汲あたりを徘徊し、日が暮れるまで粘っていました。

四季の谷汲線・晩秋 →→ こちら

西日の断片が山の端の向こうに消え、ヤレヤレ引き揚げるか・・・と機材を片付けていると、隣で構えていた同業者が不意に曰く「明日、510が黒野まで動くらしいです」とのこと。臨時列車でしか510を拝めなかった頃ですから、翌日もここで陣取る予定を急遽変更、彼らを追い駆けることにしました。
▲長瀬-谷汲 2000-11

▲更地-北野畑 2000-11

さて510の運用は朝と夕方近くに2往復ずつ、これに美濃北方止まり1往復が加わって計5往復。1本でも多く見ようと薄暗いうちから眠い眼を擦り擦り、まずは市内線からです。

ド定番ながら、車に被られる率の低い千手堂電停で待っていると、黒野から出庫した513+514がやって来ました。

既に見慣れたハズが、やはりこのツートンを見ると力が入ります。
▲いずれも千手堂 2000-11

岐阜駅前からの折り返しを同じ場所で粘ります。
570形でフレーミングの練習をしながら待っていると、ようやく陽が差してきました。
▲いずれも千手堂 2000-11

信号待ちの間にしつこく追い駆けます。

▲いずれも千手堂-本郷町 2000-11

さて次はこれまた定番の尻毛橋近くです。
たまには違う構図と行きたいところですが、単調な住宅街を抜ける揖斐線では、どうしてもお決まりの場所になってしまいます。
それでもちょっと変わったアングルでと土手の斜面に陣取り、300㎜を付けたサブカメラを危なっかしい姿勢で構えました。
引き付けてもう1枚。

橋を渡った反対側の土手も、平凡ながらスッキリと撮れる場所です。
▲いずれも旦ノ島-尻毛 2000-11

さて早朝から右往左往するうちに午前最後の列車です。
こちらもお馴染みの忠節橋。来るたびに車に被られますが、この日もうーむな結果でした。
▲いずれも西野町-早田 2000-11

忠節駅のベンチでコンビニ弁当を広げながら「ポイントは限られるし、他のデンシャは770と780ばかりだし、今から谷汲へは行けないし・・・」などと堂々巡りをしているうちに、早くも倦怠感が襲ってきました。
・・・次回に続きます。

▲新岐阜駅前 2000-11

2020年7月12日

切符から見えてくる風景 その2・主張する地紋


▲富山地方鉄道 越中荏原-越中三郷 2014-4

切符はデンシャに乗るための手段に過ぎず、降りてしまえば用済み。
通行手形以上の意味はありません。

しかし、高々数c㎡のこの小さな紙切れを眺めていると
「出札掛がやおら券箱から1枚取り出し、ガシャンと日付を入れて窓口に滑らせると、それをポケットに放り込んだ乗客は古臭い電車に乗り込み、同乗者や車掌と他愛ない日常会話を交わすうち、一人二人と小さい無人駅で降りて行く・・・」
そんな日常の光景が浮かんできます。

▲静岡鉄道秋葉線 新袋井駅前の風景 1962-4

▲鋼体化間もない頃の上信電鉄デハ31 下仁田 1960頃

▲鹿児島交通 日置 1983-3

高度成長と共に矢継早に消えて行った地方私鉄それ自体には触れることはできませんし、実装品など手に入れようもない。
・・・とすれば彼らにアプローチできる数少ない手立ては、「廃線跡」か「遺品=切符」しかないという理屈に帰結します。

こちらは管理人にとってまさに幻の路線だった、九十九里鉄道の遺品。
眺めていると、鈴なりの高校生を乗せた単端の姿や、駅の乗降風景が浮かんできます。

不正防止のためでしょうか、行き先によって赤線の本数を変えているようで、全区間用だけ線がありません。
因みに地紋(地模様)は関東私鉄に多い「JPR(Japan Private Railway)てつどう」で、現在も秩父鉄道や上信電鉄などで活躍中です。
▲管理人にとって幻の路線・九十九里鉄道

さて、地方私鉄の中には各社オリジナルの地紋(地模様)を頑固に守っている会社が少なくありません。

切符の文字面は当然ながら画一的にならざるを得ず、この小さな面積で個性を出そうとすれば地色や地模様で勝負するしかない訳ですが、逆にこれが違うだけで全く別物に変貌します。

大手私鉄ではほぼ全社がオリジナルの地紋を採用していますが、中小業者でも独自デザインを貫く路線は数多くありました。合併などで会社名が変わるのに併せて、律儀に地紋も一新する例も少なくありませんでした。
▲仙北鉄道から宮城バス、福島電気鉄道から福島交通へと変わります 

そんな中で管理人が最も惹かれるのはこちら、富山地方鉄道。
立山連峰の風景をイメージした秀逸な地模様は、1950年頃から現在に至る伝統あるデザインで、昔ながらの硬券はもちろん車内乗車券や定期券、自販機券に至るまで使われています。

1954年頃にマイナーチェンジをした以外は全く変わりなく、頑固に守り続けているところにプライドが感じられます。

▲左上「南富山から上滝行き」が旧地紋、これ以外が現行デザイン
▲もちろん優待券でも


▲車内券や企画切符にも徹底

▲系列の加越能鉄道でも採用されました

北陸各社にはそういう気質があるのか、北陸鉄道や京福電鉄、福井鉄道でも軒並み独自のデザインが採用されています。北陸鉄道では社線内と国鉄連絡券で異なるパターンを使う拘りようでした。

▲社線内は社紋、国鉄連絡では「ほくてつ」



▲京福は印象的な雷マーク、福井は「ふくいてつどう」

▲北陸鉄道小松線 加賀八幡 1984-11

こちらも今に続く独自色、長野電鉄。
券種がバラエティ豊かなのも魅力でしたが、連絡運輸の縮小や乗入れ廃止などで随分と寂しくなってしまいました。

▲モハ1003 屋代 1985-4

上の九十九里鉄道とは似て非なる「JPR(Japan Private Railway)してつ」地紋。
昭和30-40年代を代表する共通仕様で、東北各社を始め信越地方でも多く見られましたが、現在は絶滅種になりました。
▲沼尻・頚城・越後など、日本を代表する軽便路線でも

▲越後交通モハ207 下長岡 1974-8

九州では大分交通が独自地紋を使用していました。
何て書いてあるか判読できませんが、鹿児島交通や熊延鉄道で使われていた地紋は西日本に多い共通仕様のようです。
▲共通地紋は現在も島原鉄道が使用中

現在も頑なに伝統を守り続ける路線がある一方で、地紋どころか切符そのものが消滅しつつあるのは寂しい限りです。

静かに自己主張する地紋。
手元にあるこの「紙切れ」をもう一度、矯めつ眇めつ眺めてみてはいかがでしょうか。
▲行先を眺めるだけで旅の気分

▲富山地方鉄道 月岡 2014-4