2020年10月28日

秋雨の下で近鉄三昧 その3


▲近畿日本鉄道モニ212 日永 1982-9

さて、明けてまたも生憎の空模様。
しかし初めての内部・八王子線、ここで引き下がる訳にはいきません。雨脚は強くなる一方で少し不安になってきますが、めげずに先ずは内部まで乗車です。

車庫で来意を告げると、「こんな大荒れの日に何しに来たんですか」と驚いた風ながらすぐに見学許可をくれ、狭い構内にひしめくデンシャを見て回ります。
▲内部 1982-9

内部線の主力・モニ210形は四日市鉄道が1928年に導入した生抜き組。
かつては前面のRが利いた旧松阪鉄道・モ230形など無骨で好ましいデンシャもいましたが、1977年、北勢線に270形が登場するや状態の良い中古車が大挙して押し寄せ、玉突き式に引退してしまいました。

北勢鉄道出自のモニ220形。
北勢線のヌシの印象が強い220形ですが、内部・八王子線にも転籍組を含め5両が在籍していました。こちらは事故復旧時に四日市方が2枚窓になった、異色のモニ225です。



戦後生まれのサ150形は延べ12両の大所帯でした。
軽便客車にしては大人しいスタイルで面白味には欠けますが、開業時からの雑多な木造車の画一化に一役買いました。



150形の後輩格、サ130形。
矩形の150形に比べると丸みの強い車体です。


▲いずれも内部 1982-9

傘を飛ばされそうな危なっかしい姿勢にスローシャッターでは走行シーンなど撮れるハズもなく分岐駅の日永へ、取り敢えず本日の出動メンバーを押さえることにしました。




▲いずれも日永 1982-9

風雨はいよいよ強くなり、ここでついにギブアップ。最後のカットはブレないようにと、顔面にカメラを押し付けるように撮りました。
▲日永 1982-9

全身水浸しで四日市へ、このまま帰京することにします。

▲いずれも近鉄四日市 1982-9

さて這う這うの体で帰途に就いたものの、時すでに遅し。
直後に上陸した台風のお蔭で新幹線に崖崩れが発生し、浜松の少し手前、半端な所でストップしてしまいました。

現在のように計画運休など考えられない国鉄時代。
急遽仕立てられた救援列車が横付けされ、踏み板を伝って乗り込むとあとは下り線を至極ノロノロと上って行きます。疲れ切った身体で碌にニュースを見る余裕もなかったのか、台風が近付いていようとは知る由もありませんでした。

初体験の夜行新幹線で東京駅に辿り着いたのは、この10時間後のことでした。
▲内部 1982-9

2020年10月20日

秋雨の下で近鉄三昧 その2

▲近畿日本鉄道モニ214 日永 1982-9

近鉄伊賀線の前身は伊賀鉄道(初代)で、モ5181形や5201形などまさに「強者」と言うにふさわしい無骨な電車が闊歩していました。

1976年だったか、鉄道ファン誌の不定期連載「電車を訪ねて」で彼らを見てからと言うもの憧れの存在でしたが、1977年に大挙してやって来た6311・6331形に取って代わられ消滅、呆気なく夢に終わってしまいました。
▲伊賀神戸 1982-9

さて、5181に比べれば若いながら最古参には違いない5000形を追い駆けることにします。
大雨の中、伊賀上野から線路際をトボトボと隣の新居駅へ、先ずは間近で観察です。

下校時の生徒らがこちらを見て大騒ぎしていますが、これほどの反応は後にも先にもありませんでした。



▲いずれも新居 1982-9

新居を出てしばらく走ると服部川橋梁を渡ります。
晴れていれば伊賀城をバックにこのポイントで粘るところですが、傘を持ちながらのしんどい姿勢ではこれで妥協するしかありません。

▲いずれも新居-西大手 1982-9

ネグラのある上野市で待機する5007+5104。
モ5001~5006は関西急行が戦時中に導入した6311形(6311-6316)で、戦後も長く優等列車に充当されました。相方のク5101形は戦後生まれの省規格型・6331形の電装解除車です。


              ▲いずれも上野市 1982-9

上野市街を外れると田畑が広がる好ポイントが散在しますが、この雨ではスルーするしかなく、再会を期して伊賀神戸まで乗り通します。


▲いずれも伊賀神戸 1982-9

現在なら本線を飛ばしていたデンシャも片っ端から撮り回るところですが、興味が湧かなかった当時は振り向くこともなく、ずぶ濡れになりながら四日市の安宿に向かいました。
・・・しつこく続きます。
                ▲伊賀神戸 1982-9

2020年10月12日

秋雨の下で近鉄三昧 その1

▲近畿日本鉄道モニ212 内部 1982-9

地場の中小路線を立て続けに買収してきた近鉄には当然ながら生え抜き組の強者が揃い、そのバラエティさは名鉄に比肩するものでした。
1970年代以降は彼らの淘汰も進み、管理人が訪問する頃には枝線や事業用に細々と残るだけでしたが、ここも本線から都落ちしてきたデンシャで占められつつありました。

1982年秋、鈍行夜行「山陰」から京都に降り立つとそのまま王寺へ、先ずは田原本線です。生憎と朝から秋の長雨が蕭々と降っていますが、写真が撮りやすそうな駅を探して箸尾で下車、ここで運用に入っている800形2本を押さえます。



▲いずれも箸尾 1982-9

近鉄初の量産型新性能車、800形はシュリーレンとの合作。
当時流行だった湘南形を採用し、WN駆動や大型下降窓などが先駆的でした。

奈良線特急用として鳴らすも都落ちしてからは当線や生駒線、伊賀線(→狭軌化され880形に改造)が終焉の地になりました。サ700は個性的なKD-12A台車を履いています。



もう1本は後継種の820形で、こちらは大人しい近鉄標準スタイルです。

▲いずれも箸尾 1982-9

この空模様では沿線での撮影は望むべくもなく王寺へUターン、続いては生駒線に向かいました。しかしここも2本の820形が行ったり来たりで、今考えると贅沢な話ですが戦前形がおらず似たような「新性能車」だけでは直ぐに飽きてしまい、早々と撤収です。
あわよくばと期待していた元奈良電・400形は見掛けませんでした。

▲いずれも信貴山下 1982-9

当駅から出ていた東信貴ケーブルカー。この翌年に廃止になりました。
▲信貴山下 1982-9

次に向かったのは柏原、ここで道明寺線のモ6411形をスナップです。
厳ついスタイルながら戦後製で、この翌年には引退します。


▲いずれも柏原 1982-9

この雨と薄ら寒さでモチベーションは低空飛行ですが、めげずに本日のメイン・伊賀線へ向かいます。関西本線非電化区間にはD51が奮闘していた時代の色香が未だに残り、ここ伊賀上野でも低いホームや年季の入った跨線橋などから煙の匂いがしてくるような気がしました。
・・・次回に続きます。

▲いずれも伊賀上野 1982-9

2020年10月4日

大胡駅夕景


▲上毛電鉄 大胡 1989-5

「露出が失敗して没作品」という話は、最近は滅法聞かなくなってきました。
フィルム時代は露出アンダーで仕上がり真っ黒・・・は序の口で、感度(ISO)を間違えて1本丸ごと眼も当てられず、なんて失敗もしばしばでした。暗室ワークでの救済にも限界があり、数種類の印画紙と引き伸ばし用フィルターを駆使して強引に画にしたところでトーンが崩壊したりします。

しかし、長年忘却の彼方だったこうした失敗作にも、再び光を当てられるようになったのはまさにデジタルの恩恵。ソフトであれこれ補正を繰り返してみると、印画紙時代より深い陰影が表現できることも分かってきました。
▲特にモノクロのトーン表現に威力を発揮 上:中塩田 下:別所温泉 1986-9

こちらは1985年夏の足尾線からの帰途、何故ここに寄ったかは忘れましたが、陽がとっぷり暮れた上毛電鉄大胡駅。この頃は旧西武デハ351+クハ1141コンビに席巻され、カナリア電車は貨物用などに僅かに残るだけで、まさに風前の灯火でした。

これらのカットは極端な露光不足ながら、強引に補正しても何とかトーンが持ち堪えています。やはり低感度の原版(6×7判)の面目躍如でしょうか。
▲いずれも大胡 1985-8

暮れ泥む中、定位置で休むデハ101。
辛うじて残された任務は平日朝の1往復と貨物の牽引でした。
▲大胡 1985-8

デハ101はこの後塗色がオレンジ→緑とグレーのツートン→現在の茶色と目まぐるしく変わり、更に内装も復元されます。
▲いずれも大胡 上:1980-5 下:1989-5

こちらは先代の貨物電車、元東武デハ2形のデハ81。
彼を含め、戦前の強者揃いだったこの時代には残念ながら片鱗しか触れることができませんでした。
▲大胡 1962-12

▲西桐生 1973-8


▲大胡 1974-3