▲和歌山電気軌道モハ601 伊太祁曽 1961-5
戦前戦中、大都市圏近郊の中小私鉄には吸収合併の大波が押し寄せ、同時期の国策がこれに
拍車を掛けました。
拍車を掛けました。
一方で、この波に乗ることなく独立を保つも、戦後も落ち着いてきた頃に大手に吸収された例というのは余り多くありません。奈良電や信貴生駒電鉄といった、のちの近鉄各線が思い浮かびますが、現在の和歌山電鐵貴志川線もその一つです。
ルーツは1914年創立の山東軽便鉄道、しかし地誌などによると開業時から1067㎜軌間だったようで、31年に和歌山鉄道に改称。戦後のドタバタを乗り切りながらも57年に市内電車事業者の和歌山電気軌道に吸収され、更に南海に呑み込まれていきます。
▲こちらは市内線、三重交通神都線からやって来たモハ700形 公園前 1961-5
和歌山鉄道は早くからガソリンカーを導入、戦中にこれらを電車に変身させ、珍妙な改造車など多彩なメンバーが闊歩する端緒を作りました。
こちらは1961年5月、事業者が和歌山電気軌道だった頃の記録です。
まずは和歌山鉄道時代のキハを改造したモハ202。似たような日車ガソリンカーのクハ化車は各地にいましたが、モハに化けた例は上田丸子や淡路交通くらいしか思い浮かびません。
モハ601は、阪急75形の車体に南海のブリル台車を組み合わせて誕生。
仲間にクハ602、603がいますが、こちらの前歴はそれぞれ似て非なる旧阪急63形、81形です。
▲いずれも伊太祁曽 1961-5
モハ605は野上電鉄でもお馴染みだった、旧阪神701形。旧阪急の台車を履いています。
▲東和歌山 1961-5
モハ201も和歌山鉄道時代のガソ改造車ながら、こちらは四角四面の電車っぽい車体です。
キハ時代の姿がちょっと想像できません。
片ボギーのクハ801は一見して旧芸備鉄道と分かる風体です。
▲いずれも伊太祁曾 1961-5
社名に応じて切符も変化しています。和歌山電気軌道時代は僅か4年足らずでした。
▲左下が和歌山電気軌道、それ以外が和歌山鉄道。それぞれ独自カラーを主張しています
こちらは南海時代。末期まで車掌氏・窓口氏から買うことができました。
▲一路線としては券種がバラエティ豊かです
さて、こちらは同時期の市内線です。
戦後まで独立を維持した貴志川線に比べ、市内線の沿革はこの上なく複雑怪奇。ここまで矢継ぎ早に統合や分離を繰り返して来た路線は、他に例を見ないのではないでしょうか。1904年に和歌山電気軌道(初代)として設立後は、大まかに書いただけでもこうなります。
和歌山水力電気(1905)→ 京阪(1922)→ 地場電力事業者(1930)→ 和歌山電気軌道(2代・阪和電鉄系)(1940)→ 同(3代・南海系)(1940)→ 同(4代・近鉄系)(1944)→ 傍系から独立(1947)→ 南海(1961)→ 廃止(1971)
501形は旧南海の木造車、モ50形。
鋼体化ながら高床・二重屋根の古めかしいスタイルで管理的に最も惹かれます。
▲公園前 1961-5
番号や前照灯が剥ぎ取られた跡が痛々しい単車、30形。
「急援車」は「救援車」の誤字でしょうか。前面を見ていると「千と千尋の神隠し」の「カオナシ」を連想してしまいます。
▲いずれも車庫前 1961-5
短命に終わった連接車、2000形。
フィルムの痛みが激し過ぎ修復不可能なキズ・変色だらけ、見苦しいカットですが凄まじい数の「鬼架線」ですね。
▲公園前 1961-5
管理人が実見できたのは、もちろん南海になってからでした。
雑多な改造電車時代とは比べるべくもありませんが、当時の主役・1201形は名車といって良いでしょう。現路線はデンシャといい駅舎といい何ともうーむで、全く行く気が起きません。