▲上信電鉄クモハ1001 高崎 1977-8
些か大げさな言い回しながら、1976年春に彗星のごとく登場した上信1000系。
当時の上信線と言えばまだまだ木造鋼体化車が伸し歩き、同社初のカルダン車・200系も陳腐化が進んでいた頃で、いかにも「パッとしない」路線でした。
折りしも近代化を目論んでいた同社、デビューに当たっては斬新な車体デザインに加え、空気バネ台車やワンハンドルマスコン、電気指令式空気ブレーキなど最新の機能をテンコ盛りにしており、力の入れようが分かります。
非冷房ではあるものの、ローズピンクの地味な電車ばかりの同社にあって、彼の登場はイメージを一新するに充分な役割を果たしました。
▲当時の主役たち いずれも高崎 上:1974-12 下:1976-2
しかし小学生時代から馴染みの同線、新車にも余りときめかなかったのか、わざわざ見に行くこともしないまま。
最初の出会いは1976年7月末、丁度デビューから半年経った頃でしたが、秩父鉄道デキ7の惜別運転を見物に熊谷へ向かった折、その合間に高崎まで往復した時でした。
▲高崎 1976-7
その翌年の夏休みのこと、雑誌で見たのか鉄道友の会「ローレル賞」の受賞記念列車が上州富岡まで往復する由、この手の記事としては極めて珍しい事前情報です。同社はもちろん中小ローカルとしても稀有な受賞ですから、それならばと重い腰を上げることにしました。
さて高崎に着くと、既にお色直しされた1000系が待機中。
デハニ31+デハ20+クハニ13の古色蒼然3連に乗って先回り、お手軽ポイントの南高崎-根小屋に陣取ることにしました。
▲いずれも高崎 1977-8
待つことしばし、晴れ姿でやって来ます。
せっかくですから、前面が目立つようアップで撮ってみました。発車前に贈呈式をやったのでしょう、花束を持った職員さんもいます。
「架線柱ど真ん中」ながら、一応尻も追いかけます。
▲いずれも南高崎-根小屋 1977-8
高崎からほど近いにも拘らず田圃の広がるこのお手軽ポイントは、この後も「デキ詣で」で足繁く通うようになります。1994年秋にデキ貨物が廃止になってからはご無沙汰していますが、現在はどう変貌しているでしょうか。
▲いずれも南高崎-根小屋 1977-8
せっかく来たのにこの手のイベント列車はどうにも力が入らず、ドンヨリ空模様も手伝って「追っ掛け」は中止、早々と高崎に舞い戻ることにしました。
帰路の両毛線発車までの半端な時間は、国鉄線を眺めて過ごすことにします。
当時の高崎は、一日中いても飽きないくらい多種多様なデンシャを見ることができました。
0番線ホームには、先ほどの祝賀編成が任務を終えて戻って来ていました。折り返しの下仁田行で通常運行に戻るようです。
▲高崎 1977-8
鮮烈なデビューを果たした1000系でしたが、やはり3両固定編成は持て余したのか2001年に2連に改造。切り離されたクハ1301は新造の運転台を設置して独立、という大手術を受けることになりました。
1988年から「デキ詣で」で何度となく通う羽目になった上信線。
1000系とはその度に顔を合わすことになるも、やはりデキや200系の「ついで」に撮っている感あり、そうこうしているうちに超うーむな広告電車に化けてしまいました。もう一度デビュー当時の塗装を見たいものですが、現在の他のメンバーを見ると最早望めないかもですね。
▲下仁田 1992-12
1000系はデビューして間もない頃に見学会があって参加しました。上信線に全線乗ったのもその時が初めてです。よくよく見れば前面のデザインと塗装以外、それほど目新しいものはありませんが、まだ中小私鉄も新車を作れるくらいの余裕があった時代だったのですね。
返信削除モハメイドペーパーさん
返信削除大手では当たり前の機能でしたが、中小ローカルしかも地味度NO1(笑)の上信線ですから、最初は驚きました。同年代に登場した新車と言えば名鉄6000や阪急6300、西武2000など記憶に残る名車ばかりで、それらと伍する訳ですから光栄な電車かも(笑)です。中小ローカルでは富士急の5000くらいしか思い浮かびません。
上信線は運賃がとにかく高く、すぐ近くなのに高校卒業までとうとう根小屋止まりでした(笑)。晴れて下仁田制覇を成し遂げたのは、社会人になりデキ目当てで足繁く通い出してからでした。
管理人さんは新車1000デビューのとき出向いたのですね。
返信削除小生はデビューして暫くしてから出向きましたが、当時、中小私鉄で自社発注したことにびっくりしました。近年でも自社発注してますので、経営努力には敬意です。
さて、新車のときですが、クーラーが無かったことにビックリしました。これだけ綺麗な車両なのにクラー無いの勿体ないなぁ~と感じていたので、そのことを上信の方に聞いたところ、補助金をもらっていて、クーラーの予算は厳しいと聞いたように覚えてます。
当時はまだ、どの学校でも教室にクーラーは無く、大手私鉄でも「冷房準備車」という詐欺的な車両もありましたから、クーラーは贅沢品だったんだよな~と思ってしまいます。
梅雨明けで暑さ本番ですが、この上信1000を見ると、クーラーのことを聞いてしまったことをついつい思い出してしまいます。
maru-haどの
返信削除夏が来ると、私は福井鉄道西武生の待合室でマグロのように横になっていた貴君を思い出します。丁度フェーン現象直後にかち合い、酷暑が続いた1981年晩夏のことでした。
高校卒業まで非冷房教室で過ごした私は暑さに耐えられたのか、福井の酷暑も東急のインチキ冷房車も大丈夫でした。
それは兎も角、この1000形といい後に続く6000・250形といい、大手のお古でなく新造車を導入したのは英断だったと思います。しかし相変わらず経営は苦しいようで、またお古(西武やJR)に戻ってしまったのは残念かもですね。