2021年8月26日

ジーメンスを追った日々 その5・雨空のデキ

▲上信電鉄デキ2 千平-下仁田 1992-7

1992年という年は、なぜか自分でも驚くくらいに撮影行に励んだ1年でした。
通うのが習慣となっていた名鉄揖斐・谷汲線や野上電鉄は勿論のこと、北は津軽鉄道から南は小野田線や三井三池まで出向き、更にこれら以外にも碓氷峠や長電河東線、鶴見線やら20系臨時急行やら・・・近場の各線もうなされたように追い駆ける行動量でした。


▲苦心の末に構内立入り許可を貰った三井三池 いずれも三池港 1992-12

この頃は公私共に決してヒマではなく、まだ子は小さいし労働時間は過労死ラインを優に超えているしと、マイナス要因テンコ盛りだったにも拘らず、このご乱行とはアドレナリンが異常分泌していたとしか思えません。

まだまだ撮りたい対象が多かったお蔭もありますし、勿論若かったからでもありますが、やはり制約の壁が高いほど逆に撮影行への渇望が膨らんでいったのかも知れないですね。


▲上:忠節 1992-9 下:信濃川田 1992-11

そしてこちら、平日限定にも拘らず上信「デキ詣で」も春夏秋冬と延べ6回の強行軍。

この日はアドレナリン過分泌のせいもあってか、わざわざ梅雨の真っ只中に出向いています。尤も動くのは月・水・金だけでウヤもありますから、日程に関してはあまり贅沢は言えませんでした。梅雨らしい空の下、まずは途中の吉井で長時間停車中のところを追い抜きます。

▲上:吉井 下:馬庭 いずれも1992-7

そしてメインはド定番・千平-下仁田間。
相変わらずそぼ降る雨ですが、山滴る時期らしく緑が映えました。




▲いずれも千平-下仁田 1992-7

行ってしまうと、機材をアタフタと片付けて線路端を急ぎます。
下仁田では停泊していたデキ1も加わって、コンビで入換えが始まりました。2両が交互に構内を行ったり来たり、既に見慣れた光景ですが入換えパターンが幾つかあるようで、何度見ても飽きません。




▲いずれも下仁田 1992-7

小1時間の入換え作業が終了。復路は選手交代でデキ1が務めるようです。

▲下仁田 1992-7

絵に描いたような梅雨空ですから、復路は安直に南蛇井からほど近い場所に陣取ることにします。待つことしばし、カエルの大合唱に迎えられながらやって来ました。
▲神農原-南蛇井 1992-7

次列車に乗り込んで吉井で追い抜き、これまたお決まりのこちらへ。
ドンヨリ空のようにモチベーションは低空飛行、しかし結局この日も最後まで付き合うことになりました。





▲いずれも南高崎-根小屋 1992-7

いつもの電車で高崎に舞い戻って来ると、八高線のセメント列車が待っていました。帰りは東京までノンストップの新幹線を奮発です。


▲高崎 1992-7

デキが重連で雑多な貨車を牽いていた時代には間に合わず・・・というよりも、行こうと思えばいつでも可能だった筈なのに行けていない。残せた記録は同じようなトキ編成ばかりです。

車庫が高崎にあって気軽にデンシャ達を拝むことができ、ために走行シーンを疎かにしたせいもありますが、まだ全国に訪問したい路線がそこいら中に転がっていた時代。一路線に入れ込む視点や余裕はまだなかったのかも知れません。

ーメンスを追った日々 ・・・ その1 / その2 / その3 / その4

▲上州七日市 1992-7

▲根小屋 1992-7

2021年8月17日

高原列車の窓から


 ▲日本硫黄沼尻鉄道 木地小屋-沼尻 1964-10

数多くの名作を生んだ沼尻鉄道。
その魅力については今更あれこれ言うまでもありませんが、手元にある満身創痍フィルムを修復したのをきっかけに、「駅風景」を小ネタにまとめてみました。
マトモな車両写真は登場しませんので、ご承知置きを・・・

僅かな記録からは、撮影者がどういう旅程を組んだのかは分かりませんが、光線のアンバイから察するに、早朝の会津樋ノ口に降り立ち交換風景を撮影した後、次列車に乗り込んだのでは・・・と想像できます。


▲会津樋ノ口 1964-10

会津樋ノ口で交換する混合列車。
管理人と同世代の方々には、「ミキスト」という表現の方が胸に迫るものがあるのではないでしょうか。

小さな客車のデッキにまで乗客らが溢れ、其処彼処には職員の姿が見えます。列車が到着すると、この粗末な駅にも一時の活気が訪れたのでしょう。



▲いずれも会津樋ノ口 1964-10

沼尻駅舎。
早朝の薄ぼんやりした陽光から、ここに着いた時には一気に秋晴れになったようです。3人グループでの撮影行だったのですね。




▲いずれも沼尻 1964-10

川桁と沼尻を除く有人駅は、会津下館・会津樋ノ口・木地小屋の3駅でした。
1960年に交換駅が会津樋ノ口に集約されると残りは無人化され、掘立小屋のような駅舎からも駅員はいなくなりました。

高原の中にポツンと佇んでいた木地小屋駅。
こちらを見ている職員と思しき人物は保線係員でしょうか。
▲木地小屋 1964-10

小さな駅にはもちろん出札窓口があり、切符が買えました。
薄汚れたこの紙切れを眺めていると、窓口氏がガシャンと日付を入れながら滑り出す様子や、受け取りながら世間話に花を咲かす乗客らの姿が浮かんできます。


こちらは1960年に無人化された会津下館と木地小屋。
しかしお気づきでしょうか、会津下館のは1962年(昭37)の発行、しかもきちんとこの時期に即した2等級制です。3等級制時代に無人化されたハズなのに何故・・・これは今でも謎ですが、駅前の商店で委託発売していたのかも知れませんね。
▲乗降風景が眼瞼に浮かんできます

木地小屋から沼尻までの区間は標高差100m、人跡稀な原野や田圃が延々と続いていました。古関裕而の「高原列車は行く」はこの区間をイメージしたのではないでしょうか。

撮影者は沼尻から線路端を歩きながら、清秋の高原を満喫していたようです。隣の木地小屋まで辿り着き、そこからまた列車に乗り込んで旅を続けたのでしょう。


▲木地小屋-沼尻 1964-10

2021年8月9日

南海の昭和デンシャ+α その2


 ▲南海電鉄モハ2232+クハ2282 西天下茶屋 2021-5 

通称「汐見橋線」はレッキとした高野線の一部。
しかし現在は汐見橋-岸里玉出間だけが孤立路線化し、30分おきにワンマン列車が行ったり来たりだけの「下町ローカル線」といった風情です。

これは南海とは別会社だった高野線が、難波と別の立地にターミナルを設けざるを得なかった経緯によるものでした。紀伊山地からの木材を当時の水運の拠点・木津川口まで運び、収益の柱にしていたようですが、その盛業振りも現在は見る影もありません。

さて、新大阪近くの安ホテルに投宿した翌朝は、引き続き南海電車の昭和風景を追うことにします。前日に続いて6000系を追い駆け雪辱を果たすか・・・とも思いましたが、この日も朝からドンヨリ空、やはり予定通り汐見橋線へ向かうことにしました。



▲西天下茶屋 2021-5

起点・汐見橋駅。
天井の高い駅舎内はかつてのターミナルを彷彿とさせるものの、孤立ローカル線となった現在は却って寂寥感だけが募ります。臨時窓口はベニヤで塞がれ、かつて売店のあった場所も虚しく口を開けているだけでした。

改札口の上には、かつて古い観光案内図が遺物のように掲げてありましたが劣化が激しく撤去、現在はこれをイメージした新しい図に付け替えられています。




▲いずれも汐見橋 2021-5

先ず降りたのはこちら、木津川駅。
駅前には貨物ヤードや船着場跡と思しき場所がだだっ広い空地と化して横たわり、あとは工場や倉庫、若干の住宅地があるくらいで何とも殺風景です。かつて水・陸両運の要地だったとは俄かには信じられません。

ここを「秘境駅」と呼ぶ向きもあるようですが、乗降客数(1日140人前後)だけでは片付けられない、一種独特の雰囲気がありました。



▲いずれも木津川 2021-5

ホーム全景。
プツンと切られた貨物側線の跡だけが、かつての殷賑を偲ばせています。


木津川駅舎。
強いRを描いた入口は、1940年の建築当時はモダンな意匠だったのでしょう。

駅前広場はこのとおり。
ホーム上を高速道路が交錯し、遠く高層ビルやマンションが望めるのに、この一角だけが取り残された異空間のようでした。1時間後に退散するまで、もちろん誰も現れませんでした。
▲いずれも木津川 2021-5

次は本日のメイン、西天下茶屋駅です。
こちらも洒落た駅舎を構えていますが無人化久しいようで、かなりのお疲れモード。ただ周辺に何もない木津川とは違い、昔ながらの雑多な街並みが続いています。



優雅なデザインの明かり窓。モノクロの方が映えますね。
▲いずれも西天下茶屋 2021-5

ホームのベンチや壁は木部が殆ど。ペンキの剥落も長い間放置されているようでした。


▲いずれも西天下茶屋 2021-5

さてこれでオシマイですが、このまま駅からほど近いこちらの商店街へ。
汐見橋線訪問の第二の目的、実はこの商店街をうろつくことにありました。

ドラマにも登場したメイン通りの「銀座商店街」は人や車が錯綜し、新しい店もあったりとそこそこ賑っています。特に何と言うこともなく、期待外れとばかりに10分程歩き回ったところで引き揚げようとしましたが・・・
▲銀座商店街 2021-5

しかし、「引込線」のように奥へ延びる横道に入り込んで仰天。
細い通りが延々と、いつ終わるのかと思わせるほど続きます。昔ながらの喫茶店や衣料品店、雑貨屋や惣菜屋が雑然と居並び、しかも途中で枝分かれしたりしてかなりのスケールでした。


▲いずれも西天商店街・南本通商店街 2021-5

しかし残念ながら8割方はシャッターが降り、コロナ禍のせいかそれ以前から閉まっていたのか、週末だと言うのに時折自転車が通過する程度で、人気が殆どありません。

僅かにポツンポツンと開いている店があり、薄暗い中でそこだけが浮かんでいるように見えました。「お好み焼き」の蒼い暖簾の掛かった、そのうちの一軒に入ろうかと少し迷いましたが、その度胸はありませんでした。

▲南本通商店街 2021-5