2019年8月24日

大夕張の印象 その1

▲三菱石炭鉱業スハニ6車内 南大夕張 1982-3
 
「遠路には夜行急行」・・・これしか移動手段が考えられなかった学生時代、北海道は途方もなく遠い所でした。
急行「津軽」で上野を出発、弘南鉄道だの津軽鉄道だのと散々寄り道し、連絡船から初めて函館に降り立ったのは1982年3月のことでした。
▲万字線 万字炭山 1982-3
 
ちょうど赤字の根源とばかりにローカル線が槍玉に上がっていた頃で、美幸線・白糠線・湧網線・・・と道内でも廃線候補が「特盛」状態。周遊券と道内夜行急行をフル活用し、一次廃止線を最優先に片っ端から乗り回していましたが、そうした中忘れずに訪問したのが三菱石炭鉱業(大夕張鉄道)でした。
▲三菱石炭鉱業オハ1 清水沢 1982-3
 
大夕張鉄道は一日たったの3往復、「乗って撮って」の姿勢からは外れますが、ここで3軸台車を履いた「スハニ6」に乗車しない訳には行きません。
近くにあった万字線や幌内線を乗り回した後に清水沢に到着、程なくやって来る5レを待つことにします。石炭産業は斜陽ながら広い構内にはセキが連なり、側線も多く活気がありました。

5レを石勝線ホームの端から狙います。貨物はなく、客車2両だけの寂しい編成でした。
▲いずれも清水沢 1982-3
 
早速乗り込むと2両のうち1両は締切りで、客扱いはスハニの方だけでした。ダルマストーブが焔々と燃え、車内は通学客らで結構混んでいます。
▲いずれも清水沢 1982-3
 
TR70台車の律動は「タタタン、タタタン・・・」の筈が、積雪に吸収されてしまうのでしょうか、よく聞き取れません。途中駅は遠幌の一駅だけで、7.6㎞の旅は呆気なく終了です。
▲遠幌 1982-3
 
南大夕張も広い構内を持ち、1973年まで途中駅だったせいか、終端の雰囲気はあまり感じられませんでした。折り返しの6レを待つ客はおらず、夕闇迫る構内と相俟って寂しさは募る一方でした。

・・・とここで枚数がいってしまいました。次回に続きます。
▲いずれも南大夕張 1982-3

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