2019年7月28日

赤電と洋館駅舎 その1

▲近江鉄道ED313 高宮 2000-8
 
夏の一日を谷汲線で過ごした後は足を延ばして15年ぶりの近江鉄道へ。
デンシャが黄色になって以来めっきり足が遠のいてしまいましたが、モハ2+クハ1222が往年の塗装に復刻され引退前の花道を飾ると聞きつけて、気になっていた駅と併せて訪問することにしました。
▲高宮 2000-8
 
真っ先に向かったのはこちら、新八日市駅。
朝のたった2時間しか開かない窓口で切符を買うためですが、洋館のようなこの駅に来た証が欲しかったからでもありました。そろそろ店仕舞いモードの委託駅長を捉まえて、無理を言って発券して貰います。
▲いずれも新八日市 2000-8

やって来た電車に乗って帰途に就いた駅長の背中を見送った後は、改めてこの駅舎を観察です。

新八日市駅は1922年、八日市線の前身であった湖南鉄道によって建築。高い天井に広い待合室空間があり、売店か応接室の跡と思しきスペースもありました。本社機能のあった2階は今どうなっているのでしょうか。
▲いずれも新八日市 2000-8

さて、いよいよモハ1形の出番です。
しかし晩夏の凄まじい暑さに加え、この辺りはこれと言って変化のない風景、迷った挙句武佐駅に近い田圃に陣取ることにしました。

先ずは露払いでやって来たモハ500形。
骨董品級の足回りに新造車体を組み合わせた近江のお家芸・第2弾で、1983年まで製造が続きました。
真夏のトップライトではうーむな画しかできませんが、メインの赤電を2台体制でクハ側から狙い打ちします。
▲いずれも武佐-近江八幡 2000-8
 
次に向かったのはこれも見たかった駅の一つ、高宮。
折り返して来る近江八幡行をここで捕まえることにしました。高宮は開業以来の年季の入った駅舎が健在ですが、折しも改修工事に着手する間際で玄関側は養生シートに覆われており、まさに滑り込みセーフでした。

程なくしてモハ2がやって来ました。
「ワンマン」の表示がなければ1970年代の姿と変わりません。
▲いずれも高宮 2000-8
 
見送った後は改めて構内を観察開始。
多賀線が分岐する扇形の広いホームに古い上屋、乗換案内と絵になる施設が残っていました。
▲いずれも高宮 2000-8
 
・・・とここで枚数がいってしまいました。
次回へ続きます。
▲高宮 2000-8

2019年7月20日

四季の谷汲線・盛夏

▲名古屋鉄道モ751 赤石-長瀬 2000-7
 
谷汲線は10キロと短い路線ながら、四季折々に多様な表情を見せる沿線風景にはいつも発見がありました。

昭和初期の古豪デンシャがごく普通に走る姿に惹かれて谷汲詣でが始まった訳ですが、最初は目に付いたライトや窓の不細工な改造もこの風景に掻き消され、気にならなくなっていました。
▲赤石-長瀬 2000-7

2000年夏のこと、もう何度目か分からないこの日は同行の友人らと岐阜駅前からレンタカーを奮発、以来このパターンが定着することになります。

最初に向かったのは北野畑駅。
道路沿いの安直撮影ながら、山深い雰囲気を捉えることができる場所です。周辺に人家はほとんどなく、乗降は1日平均10人と名鉄の中で最少。1998年に列車交換がなくなった後は更に寂しくなってしまいました。
▲北野畑 2000-7
 
北野畑を出て右手が開けたと思うと急に根尾川が接近、この風景の豹変ぶりが谷汲線の魅力の一つです。周辺はアユ釣りの名所で、釣り人をフレームに入れました。
▲いずれも北野畑-赤石 2000-7
 
根尾川の支流、管瀬川を渡るとぐいっと90°カーブして長瀬に到着です。
▲いずれも赤石-長瀬 2000-7
 
長瀬から谷汲へ向かう電車は、それぞれコンパクトながら田圃あり山間の雰囲気ありと変化に富んだ風景を走り抜けて行きます。


ちょっと流してみました。
谷汲が近付くにつれ、一転山深い中を走ります。1990年までは近くに結城駅がありました。

季節によって異なる半逆光線が楽めるのもこの区間。
▲いずれも長瀬-谷汲 2000-7

この日は管瀬川を渡るSカーブで締めとしました。
▲赤石-長瀬 2000-7

3両の小世帯で慎ましく走っていた古豪電車、しかも大私鉄・名鉄に残っていたとは奇跡的という他はありませんが、谷汲線は揖斐線(黒野-本揖斐)共々この翌年に廃線になってしまい、電車たちも引退します。

しかしまだ廃線の話も俎上に上がっていなかったのでしょうか、沿線でカメラマンに会うこともありませんでした。

四季の谷汲線 →→ 晩秋 / 

▲長瀬-谷汲 2000-7

2019年7月13日

山峡のホイッスル その3

▲EF1626 土樽-越後中里 1980-6

最大量数を誇ったEF15、その改造機のEF16はその任務に加え、大人しいスタイルで地味な存在でした。戦前形のデンシャが闊歩していた当時からすれば振り向かれることも少なく、雑誌の特集と言えば1977年の「鉄道ファン」誌くらいでしょうか。
▲EF1623 石打 1980-6

さて、夜間だけでフィルム2本分のコマを稼ぎました。
コンビニ1軒ない当時の駅前では腹を拵えることもままならず、若かったとは言え、何も食わずに平然と撮影行を続けます。昼間の優等列車が走りだすまでの寸刻を惜しむかのように、夜が明けても貨物列車が次々にやって来ました。
ここで漸く小休止、同業者らと26号機を間近で観察する余裕も出てきました。改めて見ると「朴訥な山男」という例えがピッタリです。
 
EF64-1000番台登場の序章として時折やって来た0番台の活躍は3カ月余りでした。
▲いずれも石打 1980-6
 
石打を堪能した後はまた越後中里へ。
ガスのお蔭で露出は上がりませんが、ゆっくりと近付いてくる長大編成の貨物には充分でした。
▲いずれも土樽-越後中里 1980-6
 
こちらはお馴染みのお立ち台から。
▲いずれも土樽-越後中里 1980-6
 
上越線を象徴する特急「とき」で締めとしました。
当時嫌と言うほどやって来た115系や165系が1枚も写っておらず、今更ながらこの姿勢に後悔してしまいます。
▲土樽-越後中里 1980-6

峠の主として長く君臨したEF16も、この後間もなく登場するEF64-1000番台によってお役御免になりました。西のEF59と共に旧型補機の双璧でしたが、その一角が崩れました。
▲石打 1980-6

2019年7月6日

山峡のホイッスル その2

▲EF1628+EF15 越後中里-岩原スキー場前 1980-6

さて、夜のEF16オンステージが開始しました。
冬季以外は僅かな地元客が乗降するだけの静かな石打駅ですが、夜は全く別の空気を感じることができました。
▲EF1629+EF58 急行「鳥海」 石打 1980-6

序盤戦、まずはEF15152の貨物がやって来ました。
露出の見当がつかず、適当にスローシャッターを切ります。
全てマニュアル操作、機械シャッターのオンボロ愛機ですから、電池の消耗を気にする必要もありません。
許可を貰って陣取ったのは構内外れ、上り線の線路際。
上り列車しか狙えませんが、欲を掻いて上下双方を狙わなくても充分にフィルムを消費するほどの本数がやって来ました。ただ到着から補機連結・発車まで10分弱しかなく、アングルを替えるヒマがありません。
▲いずれも石打 1980-6
 
特急「北陸」が到着。
この頃の優等列車牽引機は長岡機関区のEF58でした。
それぞれの機関士が汽笛で合図し合い、静かにEF16が繋がります。
こちらは三脚を抱えて右往左往ですが、同業者らと自由に線路内に立ち入ることができ、現在ではウソのような鷹揚さでした。
急行「天の川」や「鳥海」などもやってきました。
機関車ばかりに集中し、当時ありふれた10系客車に眼もくれない姿勢には後々後悔する破目になってしまいます。
氷柱切りや大型のタイフォンカバーが厳めしい12号機。
かつて奥羽本線・板谷峠越えで鳴らした頃の名残です。僚機の11号機はこの頃既に休車中で、この後最も早く引退します。
▲いずれも石打 1980-6
 
補機なしの荷物列車はホームから。
寒冷地仕様のゴハチは好きな機関車の一つです。
▲いずれも石打 1980-6
 
補機の任務はEF16に混じって15も出動します。
▲いずれも石打 1980-6
 
淡々と行われる深夜の付け替え作業は昼行特急が疾駆する姿とは別の、しかし最も上越線らしい表情に見えました。辺りに人家は殆どなく、闇の中で汽笛だけが静寂を破りました。
・・・しつこくまだ続きます。
▲石打 1980-6