2023年9月16日

浜川崎支線のチョコレート電車


 ▲南武線クハ16211ほか 尻手-八丁畷 1980-11

南武線・尻手駅の片隅からひっそりと発着するブドウ色の電車。
鉄道少年時代、唯一の情報源だった鉄道誌に紹介されることもなく、1975年夏の首都圏早回りで初めて対面、しかし見たいものが山ほどあった当時は深入りすることもありませんでした。

結局こんな感じのスナップ2枚で終了、マトモに追い掛けるようになったのは田舎高校を卒業して上京した80年春。既に引退の足音が聞こえ始めた頃でした。


▲尻手 1975-7



▲八丁畷 1980-11

八丁畷のホーム端から。
眩いばかりの朝陽を浴びてやって来る彼らを捉えます。鋼製国電の祖・モハ30改造のクハ16形は厳つい風体が魅力的で、好きな電車の一つです。クハ16215は仲間の16211より正面のリベットが少なく大人しい顔立ちでした。




南武線といえば貨物列車も外せません。
八丁畷のホームは京急線の跨線橋兼用ですから、通行人にチラチラ一瞥されながらでの撮影で、ちょっと恥ずかしかったのを憶えています。こうした構造は稀有かも知れませんが、2路線がちょうど垂直交差しているお蔭でしょう。


少し待つと、隣の東海道貨物線にEF58がやって来ます。

▲いずれも尻手-八丁畷 1980-11

川崎新町駅に到着するクハ16211。


▲いずれも川崎新町 1980-11

夕暮れ近い川崎新町を行く。
沿線の宅地化で、この辺りに新駅「小田栄」ができましたが、ちっとも知りませんでした。それだけ縁遠くなっていたのですね。




▲いずれも川崎新町-浜川崎 上・中:1980-5 下:1980-11

電車と共に、EF15や58、65などバラエティに富んだ列車が見られるのも楽しみの一つ。
何度かここに立つうちに通過時刻や機関車の所属を覚えてしまい、17m車引退後も通うことになりました。



▲いずれも川崎新町-浜川崎 上:1980-5 中・下:1980-11

ここから少し歩けばあっという間に浜川崎に到着です。

▲いずれも浜川崎 上:1980-11 下:1980-5
 
浜川崎で昼寝中のED1614。
南武線用としては最晩年の頃でした。

▲いずれも浜川崎 1980-5

17m車はこの年の冬、何のイベントもなくなくひっそりと姿を消していきました。
最後まで残ったクモハ11・クハ16コンビですから少し話題になっても良さそうなもの、と当時は思いましたが、引退イベントのお祭り騒乱よりよほど最期らしい最期でした。


▲川崎新町-浜川崎 1980-11

2023年9月6日

春遠い嵯峨野


▲京福電鉄モボ102 三条口 1971-2

手元の古い記録から、前回の叡電に続きポール時代の嵐電をアップしてみます。
時は1971年冬、嵐電スタイルともいうべきモボ101・111・121形が全車とも元気な姿で走っていました。

1975年のZパンタ化に併せ、101形6両がお馴染みの全金車体に載せ替えられて一新。
80年代に入ると他のメンバーにも波及し、新形式に機器を譲り徐々に戦線離脱していきました。



▲1枚目:嵯峨駅前 他:撮影場所不明 1971-2

絶滅した車内風景。
老若男女一様に頭を垂れ、手元の小さな機械に没入するようになるのは、この30年後くらいからでしょうか。青筋を立てながら情報過多に支配され、車窓から四季の変化を感じ取ることもなくなりました。みんな何がそんなに忙しいのでしょう。


鹿王院駅風景。
京都の厳しい冬を象徴するかのように、乗客らも厚く着込んでいます。


▲いずれも鹿王院 1971-2

これは太秦駅でしょうか。
他のカットも含め、撮影場所がお分かりになる方がいましたらご教示を。
▲三条口 1971-2

三条口(現:西大路三条)。
冒頭の一枚と共に、今回最も「刺さった」カットです。
▲いずれも三条口 1971-2

モボ126の車内。
凛々しかった職員の詰襟制服姿も、1980年代から平凡なスーツに変わりました。




更新されつつ長命を保ってきたモボ101形も、いよいよ来年度にデビューする「KYOTRAM」と交代する形で引退することが決まりました。

ネットで完成イメージを瞥見すると、最近のデンシャにありがちなうーむなデザイン。しかし中小私鉄の完全な新車ですから、待ち遠しくはあります。
▲鹿王院 1971-2

2023年8月26日

もう一つの最後の冬


▲新潟交通モハ18 木場 1999-1

さて、村松からの特急バスは夕刻の新潟に到着。
このまま市内の安宿にしけ込むのも勿体なく、こちらの駅まで往復します。

委託駅長は朝しかいないし、通学生もみんな帰ってしまったのでしょう、大きい駅舎はガランとして誰もいませんでした。ホーム端で寒風に耐えながら待っていると、殆ど空気を運んでいるだけの月潟行、続いて東関屋行がやって来ました。

▲いずれも木場 1999-1

明けて翌朝、暗いうちから月潟へ。
しばらく線路際を歩き、先ずはこちらで露払いです。昨晩からの雪は止み、風も吹いていませんでした。
▲曲-月潟 1999-1

夜も明けやらぬうちから行動を開始した目的は、この2連。
平日朝のたった2往復、しかも1往復は白根止まりですから、これは外せません。かつて多くの仲間がいたクハ45形ですが、1993年の部分廃止後はこの46だけが孤塁を保ちました。

最優先課題は呆気なく眼前を通過。
次列車が来る頃になって、ようやく低い陽が差してきました。


▲いずれも曲-月潟 1999-1

月潟へ戻ります。
部分廃止後は1本突っ込みの棒線駅になってしまい、側線も撤去されていました。

▲いずれも月潟 1999-1

次は白根へ。
当駅止まりのクハ46を待ち構えます。

到着するや直ちに入換えを開始。
あっという間に本日の任務が終了、このまま側線で昼寝モードに入ります。

▲いずれも白根 1999-1

中之口川に律儀に並行する沿線ですから、風景はどこも単調で写真的には今一つ。今回は板井で初めて降りてみました。
▲板井-七穂 1999-1

しばらく辺りを徘徊。
朝方の雪もほとんどが消え、寒風に吹かれた昨晩とは打って変わって、この時期らしからぬ暖かさでした。
▲いずれも板井-七穂 1999-1

板井駅。
中之口川の堤防にへばり付くような小駅でした。


▲板井 1999-1

最後はこちらの駅で締めました。

▲いずれも越後大野 1999-1

何度か通った新潟交通線も、こうして最終回を迎えました。
管理人にとって私鉄行脚の原点ともいうべき「とってつ」こと越後交通栃尾線を始め、同長岡線に頚城鉄道、そして今回の2路線・・・ついに県内から旅客営業を行う私鉄が消えることになりました。
▲白根 1999-1