2024年12月11日

空っ風街道・高崎線

 ▲高崎線 クモニ143ほか 新町-倉賀野 1980-12

新幹線開通前の高崎線は、上信越線の雄「とき」「あさま」を始めとした優等列車群に加え、バラエティ豊かな電機に惹かれた貨物列車が分単位で輻輳し、国鉄時代からの大繁盛路線。八高線の並走区間もあるし、高崎第一機関区の留置線からお出ましになる40・70・80系を見ることもできましたから、2時間も粘れば36枚撮りフィルムなどあっという間に終わってしまうのが常でした。

高崎駅のスナップから →→→ こちら

そんな訳で高崎周辺にはもう数え切れないほど通いましたが、本日は1980年暮れの新町付近での記録をアップしてみます。

まずはこちら、早朝の上野を出る高崎行2321レ。
当時高崎線に唯一残っていた鈍行客レで、高崎から列車名を変えて長野まで通っていました。

▲新町-倉賀野 1980-12

寒風に晒されながら線路際をてくてく歩き、左右が開けてきた辺りで始動です。




特急列車の代表格「とき」「あさま」はもうウンザリするほど登場。
この頃は両者とも車種統一が進み、しかもイラストのヘッドサインに前面非貫通とあっては、管理人世代はどうにも食指が動きません。









電機のバラエティも外せません。
圧倒的多数派だったEF15に交じって、信越線や両毛線からの直通組も次々にやって来ます。









ご老体の181系も最後のご奉公。
481系改造車の腰高サロが目を引きます。これは1978年、183系の編成に合わせるべく食堂車を廃止したのと引き換えに登場した代償でした。


たった半日ながら早くも飽和状態、段々と飽きてきてしまいました。
今となっては実に贅沢ですが、様々なデンシャたちが引っ切りなしに眼前を錯綜していると、感覚がマヒしてしまうのでしょう。


そろそろ引き揚げようと思い始めた頃合いに登場した、荷電4重奏。
この時は知りませんでしたが、隅田川から上沼垂まで通う名物の2043Mでした。

▲いずれも新町ー倉賀野 1980-12

冬の陽は短く、最寄駅に戻ってくると薄暗くなっていました。
目の前を特急列車が「シャーシャー」と通過し風が止んだかと思うと、後は静寂に包まれる。忘れた頃に自分の乗った各停が「プシュー」とドアを閉める。そんな空気も味わえる機会も、めっぽう少なくなりました。
▲倉賀野 1980-12

同じ頃、ほんの一時運行されていた「EF12+EF15」もお目にかけましょう。
何しろ朝が早い列車で、この時は帰省していた実家から始発電車で駆け付けてやっと間に合った次第。八高線ホームの先端で待っていると、冬の低い陽を浴びながらゆっくりと近づいて来るのが見えました。



▲いずれも高崎 1980-12

先回りして渋川で待ち構えました。
ここで切り離し、北上する者と横道に逸れる者とに分かれます。
▲渋川 1980-12

こちらはその帰途の「ついでスナップ」。
こうした「ありふれた風景」も、いつの間にやら消え失せてしまいました。

▲いずれも新前橋 1980-12

あれほど権勢を誇った貨物機の代名詞・EF15もこの辺りから潮目が変わってきます。
この年から始まった上越線の選手交代は82年のダイヤ改正で完了、次いで高崎線でもEF60に追われる形で任務を明け渡しました。一時は東京近郊のどこへ行っても見かけた彼も、櫛の歯が抜けるように少しずつ数を減らし、いつの間にか姿を消していました。
▲新町-倉賀野 1980-12

2024年12月1日

琴電晩夏

▲高松琴平電鉄30ほか 塩屋-房前 1998-8

1998年夏のこと、この日は四国一周を果たすという友人のプランに乗っかり「サンライズ瀬戸」に初乗車。あまり写真に興味のない彼を「琴電に付き合ってくれ」と半ば強引に引き回すことになりました。

高松に着くや、名物のうどんスタンドで朝食を済ませ、早速長尾線へ向かいます。
先ずは85年の初訪問から馴染みの西前田で下車。全体的に平凡な風景ばかりの長尾線にあって、左右が開けたこの場所は来る度に陣取るのが常でしたが、いつの間にか背景には高架橋のゴツイ桁が林立していました。

▲いずれも水田-西前田 1998-8

この日もオリジナルメンバー・1000形や5000形がフル活動ですが、その中で異彩を放っていたのは東武からやって来た880。

総武鉄道出自の彼は、琴平線で80年代半ばにお役御免になってから荒れるがままの放置状態でした。しかし志度線・長尾線分断とその後のダイヤ改正を機に奇跡の復活、長尾線専従として5年ほど延命します。外装を更新した際にウインドシルを撤去したせいか、随分とノッペリした風体になっていました。

いずれも西前田-高田 1998-8

これにて午前の部を終了。
一人旅だと沿線の「よろず屋」を探し適当に昼食を済ますのが常套ながら、この日は腹を空かせて悲しそうな同行者氏の意を汲んで瓦町へ、「コトデンそごう」で食堂を物色してみます。

しかし週末だと言うのに、「そごう」の各フロアはどこも森閑としています。ブランド品を扱う煌びやかな店も、いかにも財布に優しくなさそうなレストランも人気がなく、用を済ませるや早々に退散するしかありませんでした。時あたかも金融危機真っ只中、無駄にだだっ広い通路を歩き回りながら、先は続かないだろうと暗い予感がしました。
▲公文明 1998-4

▲瓦町 1998-8

さて無事に昼食を済ませ、同行者氏の満足気な顔を横目に、再度長尾線へ。
元山駅の近くでちょっと変化球的なカットを試しながら、夕暮れまで粘ってタイムアップです。



▲いずれも元山ー水田 1998-8

瓦町近くの安宿で一夜を明かした後は、志度線へ。
早朝の3連を狙おうと房前からほど近いこちらで構えていると、デビューしたばかりの元名古屋市交・600形と近鉄OB・20形が仲良く手をつないでやって来ました。

▲上: 下:塩屋-房前 いずれも1998-8

名所だったポイントは防潮壁ができ眺望がうーむな状態に。
これを無理やりフレームから外してみますが、今は壁の幅が広がってしまい、こんなカットも撮れなくなりました。

▲いずれも塩屋-房前 1998-8

最後はもう一度長尾線へ戻り、880を抑えてから店仕舞いです。田圃もあと少しで刈入れを迎えるでしょう。

▲いずれも水田-西前田 1998-8

この後間もなく、コトデンそごうは民事再生法適用を申請して破綻。
悪い予感はやはり当たってしまいました。債務保証をしていた琴電本体も連鎖的に倒産、長く暗い時代を迎えます。

そごうが撤退した後の巨大ビルには天満屋が入居、しかしそれも10年余りでまたも閉店の憂目を見ることになりました。その後「瓦町FLAG」として再生を図るも、コアテナントだったスーパーが撤退し、今も空き店舗ばかりで衰退に拍車が掛かっているように見えます。対照的に殷賑を極めるJR駅周辺とはやはり勝負にはならないのでしょうか。

▲西前田-高田 1998-8

2024年11月17日

弘南鉄道 最後の木造車

▲弘南鉄道クハニ203 西弘前 1970-11

「あと10年、いや5年早く生まれていれば間に合った」と叶わぬ妄想を抱いた路線は数知れず。しかしこれが「滑り込みアウト」となると、山形交通や庄内交通を始め、東武32・54形、上田交通真田傍陽線、世代交代前の長電や関東鉄道・・・と近場にも憧憬の路線がずらりと並び、やはり臍を噛まずにはいられません。

国鉄や秩父鉄道の木造車が70年代半ばまで棲息していた弘南鉄道大鰐線も、またしかりでした。鉄道少年時代から木造車好きの変わったお子でしたから、弘南カラーに塗分けられた彼らはさぞかし「男前」だっただろう、と渇望は一際強いものがありました。
▲間一髪で間に合った栃尾線 長岡 1974-8

・・・という訳で、今回は手持ちの古い記録からこちらをお送りします。

まずは原型に近い姿のまま最期を迎えたクハニ203。
3両の仲間(201~203)はいずれも旧国鉄のサハ19形で、元を糺せば明治末期から大正初期に登場した6000番台で始まる院電の一派でした。





妻面だけが半端に鋼体化されたクハニ201。
この頃は荷物室をなくしてクハ201(初代)になっていました。






上の201とそっくりのクハ202。
同じフィルムにはなぜか相方・モハ100形の姿が1枚も写っておらず、撮影者に何か意図があったのでしょうか。秩父鉄道オリジナルの木造車を簡易鋼体化したゲテモノだっただけに、本当に惜しい。
▲いずれも西弘前 1970-11

この頃の弘南鉄道は国鉄車と富士身延車の天下で、特に身延車は総勢7両の大所帯でした。
弘南線に集結していた彼らの潮目が変わってきたのは1970年代半ばに東急から3600形が大挙してやって来た頃で、玉突き式に大鰐線に集団移住。しかしクハニ1280形3両は使い勝手が悪かったのか、76年に早々と引退してしまいます。


▲いずれも西弘前 1970-11

管理人世代にとっては弘南鉄道の代名詞的なデンシャだったモハ2250形。
彼を目当てに、遠い弘前の地へ何度足を運んだことでしょうか。

弘南線のもう一人の主役は旧国鉄クモハ11+クハ16コンビ。
この当時付いていた行先票は、折り返しの度に職員が一々抜き差しするものだったのでしょうか。

▲いずれも平賀 1970-11

前職の松尾鉱業からやって来たばかりの旧阪和のモハ2025と2026。
この後クハに改造されて東急車とペアを組む姿を見た時は、車体の大きさの違いに驚いたものです。巨体はもちろん、高性能過ぎて地方私鉄には役不足だった阪和形が再就職したのは、急勾配ゆえハイパワー電車を要した松尾鉱業へお輿入れしたのが唯一の例でした。
▲いずれも平賀 1970-11

最後は切符「見せびらかしコーナー」です。
この当時に記念乗車券を発行していたのは僅かに国鉄と公営交通くらいで、地方私鉄はほとんど例がありません。開業という一大イベントだったこともあるのでしょうが、当線への期待も大きかったのでしょう。
▲手作り感が満載


▲ごく初期を除けば金額式の軟券ばかりだった

▲弘南線の方はバラエティ豊かだった

▲西弘前 1970-11