2018年9月29日

電車がとおる その2・珍客登場

▲京阪電鉄122 上栄町-浜大津 1992-9
 
初めて浜大津を訪問したのは1992年晩夏のことでした。
大津線の路面区間で撮りたいけれど、東山三条近辺以外で気軽にというとやはりこの場所。三井寺方向、Sカーブを描く狭い道路に惹かれてこの時は随分と粘っています。
▲いずれも浜大津-三井寺 1992-9

暑さにめげそうになりながらボーとしていると、何やら遠くに黒いデンシャが。
もしやこれは・・・と望遠レンズで覗いて見ると、電動貨車122の姿が近付いてくるのが見え慌てて構えます。
▲いずれも新栄町-浜大津 1992-9

浜大津でUターンしたと思いきや、カメラを持ち替える間もなくあっという間に行ってしまいました。
▲いずれも浜大津-三井寺 1992-9

しばらくこのカーブで陣取りました。
あわよくば2匹目のドジョウ(122以外)、来る訳がないのは分かっていても期待してしまいます。
▲いずれも浜大津-三井寺 1992-9
 
▲いずれも新栄町-浜大津 1992-9  

やって来るのは600形や700形ばかりで、今考えるともったいない話ですが段々と飽きてしまい、予定を切り上げて錦織車庫を覗いてみることにします。丁度いい按配の場所に122が止まっていました。待てど暮らせど来なかった260・350形一派も昼寝の真っ最中でした。

許可を貰い、ぐるぐる観察して回ります。122の経歴は非常にややこしく、「私鉄電車のアルバム(交友社刊)」によると、1934年に有蓋車2002(2004との説あり)として竣工するも、その後戦後の復旧・改造を経て大津線にやってきたとのこと。かつて京阪には珍奇な電動貨車がぞろぞろといましたが、83年に本線系が昇圧すると一気に淘汰され、この122が唯一の存在でした。
▲いずれも錦織車庫 1992-9
 
122とは一期一会で、この後会う機会はありませんでした。
路面を走る電動貨車・・・これほどインパクトのある体験はあまりしたことがありませんが、昔は各地で展開された光景だったのでしょうね。
▲浜大津-三井寺 1992-9

2018年9月23日

1991年 那珂湊にて

▲茨城交通キハ1002・ケキ102 那珂湊 1991-4

「ケハ」と「ケキ」で占められていた茨交線に、道産子が大挙してやってきたのは1970年。以来キハ3710形が登場するまで、長くキハ20系列らが主役を務めてきました。

羽幌炭鉱鉄道からのキハ22に合わせ、渋いエンジ色へ模様替えした彼らでしたが、82年からクリームと青帯に、更に赤青の斜線が入るに及んで、すっかり写欲が失せてしまった管理人。
長い空白を経て、中根周辺の田園風景をメインに撮影を再開したのは、それから10年後のことでした。本日はその空白期間の只中、日立電鉄への道すがら立ち寄った記録からです。

▲キハ1002 那珂湊 1991-4

1991年春、既に大半は国鉄OBに代わっていました。
本日の当番はキハ113。111-113の3両のうち、2両が博物館入りしています。 この113は引退直前、1950年代の国鉄標準色に塗り替えられました。
後ろについていたのは旧キハ20のキハ202です。茨交にやって来る前、鹿島臨海時代にライトが角型でしかもこの位置に。何とも不格好ですがワンマン化・冷房化されずに早期に引退します。
▲いずれも平磯 1991-4

▲平磯-磯崎 1991-4

この塗装に沿線で撮り続ける気力が早くも失せ、那珂湊へ。
まずはこちら、「ヘソライト」で異彩を放っていたキハ1002です。カーブで光束を軌道中心に合わせるという優れモノ(但し手動)でしたが、点灯している記録を見たことがありません。既に廃車のようで、ガラスが割れた痛々しい姿でした。
こちらも留萌のキハ1103。キハ1000の後継種で、大人しい湘南スタイルに変わっています。この2車種には斜線塗装は入ることなく、このスタイルのまま引退しました。
茨交名物のケハ601は初のステンレスDCとして有名ですが、総括制御ができないことが祟って早々と予備車になり、この当時既に旧車状態。現在も車体が残っています。


 先ほど走っていた国鉄OBの兄弟車、キハ111・112・201が待機中でした。
色褪せたケキ103。この前年に廃車になっています。
▲いずれも那珂湊 1991-4

那珂湊駅舎。
隣の飲食店は閉鎖されたそうですが、三セクとなった現在も駅舎はほぼ変わらぬままというのは喜ばしいですね。
▲那珂湊 1991-4

こうして見ると、矩形の側面に斜線や曲線はやはり似合わないなあ、と改めて思います。尤も、「何でもあり」の現在の鉄道車両に比べればまだまだ大人しいですが。
▲那珂湊 1991-4

2018年9月16日

鶴見線 世代交代の頃

▲鶴見線クモハ73形 安善-武蔵白石 1977-5

72系の天下だった鶴見線に新性能化の波がやってきたのは1979年12月でした。
受験シーズンに入り、気分が沈みがちな79年の暮れが押し詰まった頃、試験会場の下見に行くと言う同級生に同行、その後近くだからと無理やり付き合わせて鶴見線へ。丁度、72系が終焉を迎えようとする頃でした。
▲浅野 1979-12

こちらは入線したばかりの101系混色編成。
103系に置き換えられて古巣を追われ、第二の職場にやって来ました。
▲いずれも浅野 1979-12

かつて63系の残党がぞろぞろと残っていた当線でしたが、1978年に南武線から近代化改造されたクモハ73-500・600番台やクハ79-300番台らが大挙してやって来ると、初期車や63系ルーツ車は殆どが引退。これはちょっと写欲が失せます。

こちらは少数派になっていたクハ79三段窓車。
▲いずれも浅野 1979-12

こちらはその2年前のスナップ。この間で随分と顔ぶれが変わった・・・と実感です。
▲上・武蔵白石 中・浅野 下・鶴見 いずれも1977-5

鉄でない同級生を引き回すのも限界があり、この日はホームでのスナップだけでソソクサと引き揚げてしまいましたが、これが旧型に会えた最後の機会になりました。

「番台分類が大雑把過ぎ」「72系じゃなくて73系」「そもそも近代化改造とは」・・・・などなど72系に関しては一家言を有する方も多いでしょうから、この分野に詳しくない管理人はこの位にしておきます(笑)。
▲いずれも鶴見 1979-12

2018年9月11日

新潟交通 モハ16と小中川あたり

▲新潟交通モハ16 灰方 1988-5

新潟交通モハ16は日車標準型ばかりのモハにあって異色の存在でした。
その出自は1927年製の伊那電デハ120形124。国鉄を経て当線にやってきて以来、ダブルルーフの半鋼製車体で異彩を放っていましたが、1969年に小田急デハ1400形の車体に載せ替えられます。

同じく小田急デハ1400形車体のクハ45とは仲間になりますが、やはりパンタを載せた姿は一味違います。単行で入ったり、クハ45形とコンビを組んだりと80年代まで大車輪の活躍でした。
▲クハ45+モハ16 味方-白根 1988-5

1984年の晩秋のこと、この日はモハ16が単行運用に入りました。一面の田園の中を一直線に走る小中川付近で捕えることにします。
同じ場所で粘っていると、クハ39を逆向きにぶら下げたモハ25がやって来ました。こうした「クハ逆向き編成」は朝夕を中心に結構な本数がありましたが、逆向きのクハは回送扱いで乗車はできませんでした。
▲いずれも新飯田-小中川 1984-11

燕で編成を付け替えて、今度は本物の2両編成で折り返してくるのを待ちました。元武蔵野デハ320形のクハ39は1形式1両、蒲原鉄道モハ71は兄弟車です。
▲小中川 1984-11

さて、モハ16との2回目の邂逅は1988年、3度目の訪問のこと。午後から単行運用に入ったモハ16を追いかけ、最後は灰方近辺に軸足を置いて何度か往復するのを見送りました。
▲いずれも灰方 1988-5

灰方を発車、田圃の真ん中でぐいっと90度カーブすると、カエルが大合唱する中を真っ直ぐに燕へと向かいます。
▲いずれも灰方-燕 1988-5

両端を除いて中之口川沿いを律儀に走る新潟交通ですが、燕~灰方~小中川辺りまでは数少ない開けた区間。灰方は田圃の中に佇立する木造民家のようでした。
▲いずれも灰方 上:1988-5 中・下:1984-11
 
モハ16の出番が終わってしまうとあとは日車標準型モハばかりになりますが、夕方からは今度は仲間のクハ45形がやって来ます。
▲いずれも灰方-燕 上:1988-5 下:1984-11
 
1992年に軌道線がなくなると、後を追うようにこの区間も姿を消して行きました。孤立路線になった当線は、バスとの連携を模索しながら生き残りを図るも、99年に全線が廃止になります。
▲灰方 1988-5