2023年10月29日

雨上がりの福井で その2

 ▲京福電鉄モハ1101 市野々-永平寺 1996-10

さて、朝しか出動機会のない140形を捉えようとすると、あまりあちこちに移動できません。左右の開けたこのポイントも気に入ってしまい、しばらく粘ることにしました。

一時代を築いた200形もこの頃はちょっとくたびれて見えましたが、急行から外れたとはいえまだ欠かせぬ存在。現場での使い勝手が良かったのか、後輩格の静鉄車・名古屋車より長命を保ちます。

▲三十八社 1996-10

こちらは急行時代。
2007年初夏、203編成がこの塗装に戻るや俄然人気者になりますが、前面の蛾が貼りついたような「福鉄」マークではなく、このイメージにして欲しかったと思うのは贅沢かもですね。


▲福井駅前 1978-4

本日最後の140形がやって来ました。
長電300形と名鉄モ900形という、ルーツも経歴も全く違う電車を組み合わせてしまう発想は、「連接車文化」を持つ福鉄ならではなのでしょう。

▲いずれも鳥羽中-三十八社 1996-10

線路端を走ってしつこく追い掛けます。

▲三十八社 1996-10

140形が全部行ってしまい、あとは200形とこうしたメンバーだけになります。
ついでに撮っていた感ありの彼らでしたが、どれも鬼籍入りですから今となっては正解でした。

▲いずれも鳥羽中-三十八社 1996-10

西武生で下車。
車庫を一覗きするも140形が奥に押し込まれている以外はガランドウ、デキ3も見当たらないし早々に立ち去ることにします。


▲西武生 1996-10

点検でしょうか、側線にいたデキ11に何やら動きがある様子。
構内を行ったり来たりする姿を期待するも、パンタが上がっただけでオシマイでした。

▲いずれも西武生 1996-10

何度歩いても迷う西武生から武生までをてくてく、これにて終了です。
▲西武生-武生 1996-10

▲武生 1996-10

車庫の片隅で荒れ放題だった最後の200形も復元され大切に保管されているようで、先ずは一安心。動態保存を期待したかった所ですが、台所事情の厳しい地方私鉄には困難でしょうし、鉄道車両を文化遺産として残す気概のないお国柄ですから、仕方がないのでしょうか。

200形が走らなくなってからはご無沙汰している福鉄、来春の新幹線開業で一段と華やぐことになるでしょう。デンシャ的には今ひとつながら、新しい顔を覗きに行きたい所です。
▲三十八社 1996-10

▲鯖浦線・南越線健在の時代はデンシャも切符もゲテモノの宝庫だった

▲福武線から硬券が消えたのは早かった

2023年10月22日

雨上がりの福井で その1

 ▲福井鉄道モハ200形 三十八社 1996-10

1996年秋のこと、何を思い立ったのか昼過ぎから下り新幹線に乗車。
世は取り憑かれたようなバブルが終焉を告げ、迫りくる金融危機に戦々恐々としていた頃で、仕事で何かあったのか。前年に阪神・淡路大震災に地下鉄サリン事件と暗い事件が続き、沈鬱な空気に支配されてもいました。

しかし、バブルの恩恵が何もない代わりに副作用にも罹らなかったお気楽管理人にとってはそれも彼岸の出来事、どうやら仕事の詰まらぬイザコザのストレス解消程度だったのでしょう。

さて、出発が遅いですから、福井に着く頃にはもう陽が傾いています。
先ずは大好きな京福永平寺線から表敬訪問、終点から線路際を歩いていきます。新幹線の車窓から恨めしく眺めていた雨も上がり、本日の単行当番・阪神車を待ち構えました。
▲市野々-永平寺 1996-10

永平寺で折り返し待ちのモハ1101。
この頃はモハ251・252コンビと阪神車が交代で運用に入ることになっていました。


▲永平寺 1996-10

市野々は何度も降りた馴染み深い駅です。ここで日が暮れるまで粘ることにしました。
▲市野々 1996-10

コスモスを強引にフレームに入れてみましたが、降り続いた雨のお蔭で花が頭を垂れてしまい、ちょっとうーむな出来に。この日はこれだけでタイムアップ、福井の安宿へ引き揚げます。

▲いずれも京善-市野々 1996-10

明けて翌日は絵に描いたような秋晴れ、今回のメイン・福井鉄道へ。
前年夏、広々とした田園風景に惹かれて撮り歩いた三十八社で今回も下車してみます。

この日の課題は、朝しか出番のない140形。
前回は路面区間を伸し歩くシーンを捉えましたから( → その1その2 )、今度は鉄道線で飛ばす姿を優先です。雨上がりの清冽な空の下、立て続けにやって来ました。


上のカットから少し武生新寄りに歩いた場所で。
路面区間をノロノロと我物顔で行くシーンも痛快ですが、そこから解放されてすっ飛ばす豹変ぶりにもまた惹かれます。

▲いずれも鳥羽中-三十八社 1996-10

この頃急行は静鉄の300形、各停はかつての花形・200形という布陣が定着。
一時期ド派手な全面広告ばかりになった200形も、スタンダードに戻っていました。

▲いずれも三十八社 1996-10

突然の思い付きでしたから余り長居もできず、あとは車庫を一覗きして帰るだけになりました。
・・・次回に続きます。
▲武生 1996-10

2023年10月15日

食パン電車の午後 その2


▲日立電鉄モハ14 大橋-川中子 1980-11

さて、大甕で散々長居した後は漸く沿線へ。
路線長の割にメンバーは多いですから、電車達は大甕以外にも両端駅に分散配置されていましたが、先ずは鮎川からです。

小田急モハ1形一派がここにもいました。
側面ドアが見てビックリの1007は、これ以外は小田急時代のイメージを最も良く残しています。相鉄へ移った後に荷電になり、ヘタな更新を受けてこなかったのが幸いしたのでしょう。
▲鮎川 1980-11

鮎川駅の直ぐ横は常磐線。
当時は当たり前すぎてロクに記録しなかった「ひたち」がすっ飛ばして行きました。

▲いずれも鮎川 1980-11

鮎川を辞した後は車庫のある久慈浜で下車です。

▲久慈浜 1980-11

手狭なこの車庫には1両も見当たらず、元院電のクハ141とデワ1のダルマさんが倉庫として余生を過ごしているのみ。このクハ141の相棒だったデハ101が大井工場へ里帰りし、ナデ6141として復元されました。



▲いずれも久慈浜 1980-11

一通り押さえて、次は風景が開けた大橋で降りてみました。


▲大橋 1980-11

午後の単行当番は顔つきの違うモハ14と16。
田圃の真ん中に陣取ってしばらく粘ってみます。


▲いずれも大橋-川中子 1980-11

続いてはもう一つの終点・常北太田へ。
こちらも狭い構内に電車たちがひしめき合い、静鉄からお輿入れしたばかりの100形もいました。これだけの両数が果たして必要だったのか、今更ながら不思議です。


▲常北太田 1980-11

製造年ではモハ1300形と共に最古参組(1930年)のモハ51。
ルーツは加太電気鉄道(→南海電鉄)デニホ51という代物で、戦後弘南鉄道に移った後、1962年にこちらへ嫁いできました。この頃は完全に休車だったようで、かなりくたびれた状態。その後82年に廃車になっています。


モハ1000形の荷電改造組、ここにもいました。
この頃単行用には定番のモハ9形・11形や13形、朝ラッシュ時には3連・4連の固定編成、そして静鉄車もいましたから、果たして出番はどれほどあったのでしょうか。






宇部鉄道モハ20形を出自とするモハ1300形。
この当時1両だけ残っていた1301も廃車になると思いきや、ワンマン改造されて90年代まで生き残りました。


紫+クリームという凄い装束の3連(モハ1003+モハ1002+クハ2501)がいました。
静鉄車に合わせたらしいですが、この後間もなく元に戻されます。クハ2501の前身が東横電鉄の流線型キハ1形だったとは、ちょっと信じられません。


▲いずれも常北太田 1980-11

これにて無事に終了、常北太田と対峙している水郡線・常陸太田から帰途に就きます。ありふれたこういう編成や駅構内の風景にも、もう少し眼を向けておくべきでした。


▲常陸太田 1980-11

この頃、大甕のホームや常北太田の待合室には昭和レトロ感満載(昭和時代ですから当然かもですが)の売店が居を構えていたり、ローカルムード溢れる駅舎(大沼など)もあちこちに健在でした。なのに記録はゼロ・・・とまたしてもフィルムを見返して後悔する破目になりました。

デンシャだけで撮りたい対象が山のようにあった時代ですから、当時の鉄道オタクの志向として自然といえば自然かも知れません。
しかし、時折鉄道ファンでない地元民の撮った同時代のスナップなどを見ると、その度に駅構内や駅前通りをついででも良いから何故1枚も残さなかったのかと、やはり思わずにはいられませんでした。

▲70年代後半から独自デザインになった


▲連絡券も多彩な顔触れだった