2024年9月22日

夏の北恵那の記録から その2

▲北恵那鉄道モ 563 撮影地・撮影日不明

晩年の北恵那鉄道は朝5本に夕方6本、そして日中は全く列車の走らない、当時の私鉄ローカル線ではダントツの寂しいダイヤでした。

ダム建設の資材運搬用として建設された当線、戦後は沿線に工場や高校が進出して活況を呈すも長くは続かず、1960年代には各地のローカル線がそうであったように凋落への道が始まります。


▲スタンダードな様式ながら自社地紋だった

さて、沿線風景の次は各駅の記録をアップしてみます。
まずはこちら、中津町から2つ目の山之田川。1968年と早くに無人化されたようで、その頃から放置されたであろう片隅の「ト」が今回撮影場所を特定する鍵になりました。
▲山之田川 撮影日不明

中間で唯一の有人駅・美濃福岡。
夕方の2本がここで交換する他、朝には当駅始発もありました。



▲いずれも美濃福岡 撮影日不明

こちらはかつての交換駅、美濃下野でしょうか。
▲いずれも美濃下野(と思われる) 撮影日不明

終着の下付知。
林業で殷賑を極めたこの地らしく、総ヒノキの立派な駅舎が建っていました。造りの良さが幸いしたのか、2002年までバス待合所として残っていたのは良く知られたところです。

▲いずれも下付知 撮影日不明
 
廃線間近の記録もありましたので、こちらもお目にかけましょう。
ご他聞に漏れず、廃線が近づくやこちらもカメラの放列に囲まれたようですが何しろこの本数、沿線での撮影はどうやって移動手段を確保したのだろうと要らぬ心配をしてしまいました。電車の装飾にはいつくかのパターンがあったようです。

廃線後はデ2が唯一の保存車に、しかし多くの「公園電車」と同じように最後は邪魔者扱いされて1996年に解体。一大遺構だった下付知駅舎もなくなりましたが、未だ沿線には第二木曽川橋梁を始めホームや待合所など、当時を偲ぶ多くの材料が残されています。

               ▲いずれも中津町 1978-9

2024年9月14日

夏の北恵那の記録から その1

 ▲北恵那鉄道モ565 撮影場所・撮影日不明

手元の古い記録から、本日は「ほんの一覗き」に終わってしまい、乗車も叶わなかった北恵那鉄道をアップしてみます。

北恵那のデンシャに会ったのは1976年夏休みのこと。
上野発の夜行急行「妙高5号」乗り込み、上田交通や長野電鉄、松本電鉄を訪問後、名古屋経由で舞い戻ってくるという「大回り旅」の道すがらでした。中津町に着いた時は既に午前の運行は終わっており、夕方まで長い昼寝をしながら屯する電車達を見て回ってオシマイの体たらく、まさに一期一会でした。


▲いずれも中津町 1976-7

まずは撮影叶わなかった走行シーン、といっても撮影地が不明なカットばかりです。
光線の按配からして夏の夕刻でしょうか。一枚目、行く末を象徴するかのような草ボウボウを掻き分けながら駆ける姿には、今回最も惹き付けられました。



▲いずれも撮影場所・撮影日不明 

撮影名所だった第二木曽川橋梁。
どのコマもとにかく変退色やカビ・シミと劣化のオンパレードで、修正もこの辺りが限界でした。


▲いずれも中津町-恵那峡口 撮影日不明

橋梁は全部で15箇所もあり、木曽川や山之田川、付知川などいくつも川を渡ります。こちらは恵那峡口-山之田川でしょうか。

▲撮影地・撮影日不明

▲山之田川付近? 撮影日不明

・・・とここで枚数を稼いでしまいました。
もったいぶって次回に続きます。


▲さよなら記念以外で発行したのは50周年記念(71年)だけだった

2024年9月4日

1998年春 長崎にて

▲長崎電気軌道863・209 観光通り 1998-4

1998年春、長崎での退屈な出張仕事を終えると、予約しておいた安宿へ。
まだビジネスカジュアルなどなかった時代、スーツ+ネクタイ姿では物見遊山の名所巡りを気にもなれず、カメラ1台だけを持って駅を覗いてみました。

広い構内に行き止まりの櫛型ホームのあった長崎は終着駅らしい趣で、今とは別物でした。ここに限らず、新幹線が通るとオシャレな店ばかりが増殖し、鉄道施設は例外なく狭苦しくてツマランものに変貌してしまいます。

さて入場券を買ってホームに出てみると、東京行のロングラン「さくら」が夕陽を浴びて客待ちをしていました。日本の特急列車でもとりわけ長い歴史を誇った「さくら」も、この翌年には「はやぶさ」と併結、その後2005年に廃止になってしまいます。

▲いずれも長崎 1998-4

「さくら」を見送り、駅前に出てみました。
帰宅ラッシュに差し掛かり、電停には雑多な電車が数珠つなぎで待機しています。

都電カラーに復刻された700形は元1067mm区間用の2000形。5両の仲間が次々に離脱する中、開業70周年を記念した動態保存車として残り2019年まで活躍します。

▲いずれも長崎駅前 1998-4

明けて翌日、もう一度長崎駅へ。
ここで大阪からの「あかつき」を狙うことにしました。


「あかつき」は、最盛期に7往復を誇った関西発ブルトレの代表格でした。
この頃はたった1往復ながら座席車「レガートシート」や1人用個室もつないだ賑やかな編成。しかしこれが最後の一閃というべきか、程なくしてもう一つの代表列車「彗星」との併結を経て2008年に廃止されます。
▲いずれも長崎 1998-4

「あかつき」の回送を見送った後は再度長崎電軌へ。
1日乗車券を買いあちこち乗り回してみますが、やはりスーツ姿では動き回るモチベーションも低空飛行です。












▲上・中:西浜町 下:観光通り いずれも1998-4

観光通り電停近く。
200形はその一派(211形・300形)を含め総勢26両の大所帯で、戦後の大型化に一役買いました。1950-53年生まれの最古参ながら、現在もその大半が第一線で活躍しています。




▲いずれも観光通り 1998-4

大浦支線の終点・石橋電停。
ここも線路両側にホームができ、周辺の風景と共に一変しています。

▲いずれも石橋 1998-4

新学期も始まったばかりだと言うのに周りは修学旅行生ばかりが目立ち、加えて動きにくいことこの上ない姿では撮影意欲も名物を食べ歩く気力も失せてしまい、このまま長崎空港から帰途に就きました。

あれから長崎とも四半世紀のご無沙汰、この間低床車のデビューが続き都電OBはおろか初代軽快電車も引退してしまいました。今なお現役を張る200形の陣中見舞いと「家族孝行」を兼ねて再訪の機を窺ってはいますが、訪日客がこうも多くてはちょっと逡巡です。
▲長崎駅前 1998-4