2023年2月5日

デハ250・6000登場の頃

▲上信電鉄クハニ14+デハ23 高崎 1981-9

今でこそデキと「ド派手な広告電車」が象徴となった上信電鉄も、1970年代までは薄汚れたローズピンクの鋼体化車が闊歩する地味な路線で、雑誌に取り上げられることも殆どありませんでした。そんな上信線も1976年に1000形、次いで81年に250形と6000形が登場するとイメージを一新、徐々にカラフル路線へと変貌していきます。

こちらは新製間もないデハ250形。
性能的に特に斬新という訳ではありませんが、アイボリー地に幕板部オレンジ・腰板部茶色・更にそれぞれに縁取りと、派手さが1000形よりパワーアップしています。藍色のこれまた派手なバンパーは、増解結の邪魔になったらしく後に取り外されました。




同時期に登場した6000形。
こちらも派手な装束ながら幕板部がブルー、腰板部がオレンジと趣を異にしています。250形同様、特に革新的な性能がある訳ではありませんが、上信初の冷房車になりました。しかし1984年冬、登場から僅か3年余りで正面衝突事故を起こして大破、ATS全線導入のきっかけを作りました。

▲いずれも高崎 1981-8

新形式の本格デビュー後も、辛うじて区間運転に残っていた鋼体化車。
デハ23のルーツは電化開業時の自社発注車で、更新時期が1960年と新しいせいかシル・ヘッダーなしの近代的なスタイルです。
デハ23の車内。
懐かしいチャンネルが付いたままのこいつは、一体何に使われていたのでしょうか。正面だけを切り取って貼り付けたように見えますが、まさか映像が出る訳ではないでしょうね。

▲いずれも高崎 1981-8

デハニ30形も電化時の自社発注車。こちらは予備車として91年まで在籍しました。

クハニ14も自社発注車で、こちらは元デハ。車体裾が長く間延びした印象です。


クハ22は豊川鉄道モハ20形をルーツとする買収国電。
鋼体化の際に車体を延長、収容力がアップしたお蔭でデハ10とコンビを組みラッシュ対応に重宝されました。


元西武451系の100形。
1980年から4編成が登場するも、うち1編成は上記6000形との衝突事故に遭遇し、翌年廃車になってしまいました。


▲いずれも高崎 1981-8

電化開業時の自社発注車ながら、更新時期が1960年と最も新しいデハ22。
両運が幸いし、81年の戦列離脱後も高崎の入換用に残りました。背後の「カッパピア」は子会社が運営していた、流れるプールがウリの遊園地でした。
デハ22と組んで入換えに励むED316。
ピンク地に白帯+真ん中に社紋とありゃーな装束に変わっていました。

▲いずれも高崎 1981-8

その後は暫く国鉄線を観察。
高崎と言えば、上信越線の優等列車に八高線ディーゼル、そして貨物列車が次々に往来する、1日中いても飽きない駅でした。2枚目のEF58は工場入場車の回送でしょうか。

▲いずれも高崎 1981-8

時あたかも社運を賭けた「近代化事業」が始まり、乗客減少に歯止めをかけるべく一歩を踏み出した頃でした。250形と6000形デビューもその一環で、信号所新設や駅の改良、線形や枕木の改善と立て続けに着手、急行や準急を運転しスピードアップも図り・・・とまさに総力を挙げての取組みだったのでしょう。

▲高崎 1981-8

9 件のコメント:

  1. 元西武の100形は501系のエアサス台車と振り替え、弱め界磁を生かしてスピードアップを行うという触れ込みでした。上信に限らず、まだ地方私鉄もそこそこの勢いがあった時代ですね。

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  2. モハメイドペーパー2023年2月6日 11:33

    前の投稿、名前を忘れました。モハメイドペーパーです。

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  3. モハメイドペーパーさん

    80年代は地方ローカルもまだまだ元気がありましたね。
    大きな節目というか打撃になったのが84年の国鉄貨物縮小ですが、その後の大波も何とか乗り換えてきた各線が最近また元気がないのが心配です。

    100形は近代化事業が軌道に乗るまでのつなぎという位置付けでしたが、思ったような成果がなく図らずも96年まで長生きしましたね。何度も乗っている筈なのですが、501の空気バネだったとは知りませんでした。どうも当時はデキに夢中で尻の感覚が鈍っていたみたいです(笑)。

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  4. 100形ですが一陣のクモハ3輌はMT30搭載し、速度向上の一環としていました。
    衝突事故で102編成が潰え、105編成を追加しましたがこちらのクモハはTR14かつMT15。
    おまけにクハは1651形車種とするグループにて、両毛線の70系のごとき前後で顔が違う面々となっていました。

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  5. 自分が初めて乗車したときは西武鉄道のお下がりで往復してました。
    オリジナル車両の存在は知ってましたが、実際に乗車できたのは(1000系以降です)かなり後になってからです。中古車両ばかりの会社でもオリジナル車両を今でも導入している路線はかなり少いので貴重な存在でしょう。
    そういえば数年前まで100形が1編成残してあり倉庫代用で使ってましたが、700系導入の前後に解体されてしまいました。何らかの形で使うことを考えたと思いますが台車だけでも西武鉄道に返還すればよかったと思います。

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  6. 12号線さん

    105編成は古色蒼然の装備の上に、特にクハ側はヘンテコな塗装も相俟って全く撮る気が起きませんでした。確かに70系のクハ76・77コンビに見えなくもないですね。100形は晩年200形と同じピンク装束になり、少し男前になりましたね。

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  7. taiitisさん

    上信は古くから自社発注車が多かった経緯のせいか、オリジナルに拘る風土がありますね。1000系導入後からカラフル路線になったのも、少しでもオリジナリティを出したい現われかも知れません。ピンク色になった100が倉庫代用になっていたのは高崎で瞥見したことがありますが、塗装がはがれて痛々しい風体でした。

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  8. 第二次石油ショックの直後で、鉄道利用を見直そうと、行政も支援を試みた時期でしたね。80年代半ば以降の内需拡大方針と自由競争原理の導入で、そういった地道な取り組みも一気に吹き飛びましたが。

    上信電鉄の新型電車は、気動車製造の印象が強かった、新潟鉄工製だったのが物珍しかったです。その新潟鉄工も東急車両も現在は消滅。車両メーカーの浮沈は、鉄道会社以上に激しいですね。

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  9. 緑の猫さん

    上信でも補助金を得て近代化事業に着手したばかりの頃でした。このまま新車導入の機運が続くのかと思いきや、7000系登場まで停滞してしまいました。クルマ王国の群馬とはいえ、輸送実績も収入も91年から下がり続けていますから、幸先が良いとは言えないですね。

    新潟鉄工は圧倒的にディーゼル車メーカーの印象ですが、新交通や路面電車(岡電MOMOや熊本など)も手掛けていたんですね。現在はIHI系のメーカーが承継しているそうです。

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