それまでの常識を覆し、鮮烈なデビューを果たした車両というと何が浮かぶでしょうか。
管理人世代だと国鉄151系や101系、20系客車と錚々たるメンバーが並びますが、同時期に私鉄各社に登場した名車、例えば東武DRCや小田急SE、名鉄パノラマカーに近鉄初代ビスタカー、京阪1900系・・・なども外せません。
あまり書くと「京急600はどうした」「京王5000を忘れている」「何と言っても東急青ガエルでしょう」「いやいや阪急2000でっしゃろ」「地味だけど神戸300もありまっせ」とキリがないので、ここいら辺にしておきます。
その意味では阪神3011形も、ブドウ色の古強者ばかりだった時代に颯爽と現れた初の新性能車として特筆されるでしょう。時あたかも「湘南型」全盛期で、3011形もこれに違わず丸みを帯びた2枚窓での登場でした。
新製時はM車を挟んだ3連でしたが、その後混雑時への対応で編成を組み替え4連に。湘南顔も10年余りで改造されて3561・3061形へ転生、お馴染みの赤胴顔になりました。
▲福島 1962-3
▲記念切符としては初期の部類。手書きの部分満載
▲阪神電車に限らず、この時代の関西各社の絵柄はセンスが光るものばかり
▲普通切符は伝統の軟券
戦前世代もまだまだ第一線で活躍中。
1001形は、300番台で始まる大正時代の木造車を鋼体化して1931年に登場し、その後1101形、1111形・・・と少しずつモデルチェンジしていきます。
ところで一連の撮影地、土地勘があれば背景の街並や高架橋から多少なりとも推定できる筈なのですが、からきし不案内な管理人には見当もつきませんでした。
▲いずれも撮影地不明 1962-3
後輩格の1121形も300系列からの鋼体化組。
この辺りからお馴染みの明り窓がつけられ、戦前の完成形ともいうべき名車「阪神の喫茶店」こと851形へ昇華していきます。
▲撮影地不明 1962-3
引退後の1001形一派は15両が野上・土佐電へお輿入れし、それぞれ廃線まで活躍します。
野上電車は管理人の「思い入れ度」五指に入るくらい通い詰めた路線でしたから、5両の仲間、特に明かり窓が残るモハ31・32コンビには随分と被写体になって貰いました。
▲野上中-北山 1992-8
▲登山口 1992-8
▲北山 1992-8
こちらもデビューしたばかりの5101・5201形。
初代5001形の実績を受けて登場した初の量産型で、これを機にジェットカー時代が始まりました。
▲いずれも福島 1962-3
優等列車用の3601・3701形コンビ。
彼の登場によって、戦後を支えた800系列・1000系列の淘汰に拍車が掛かることになりました。
▲いずれも福島 1962-3
管理人が全国を放浪し始めた1980年代始め、既に阪神の新性能化は終了していました。
その頃は地方のオンボロ車両が最優先でしたから、彼らを振り向きもしない期間が長く続き、何度も乗った筈なのに梅田でのスナップ1枚すら撮っていないという体たらくでした。
こちらは2代目5001形引退の足音が聞こえ始めた頃、ようやく罪滅ぼしとばかりに1日中追い掛け回した際の記録です。
▲淀川-姫島 2022-3
▲野田 2022-3
同じフィルムにあった桜島線のカットもお目にかけましょう。
▲撮影地不明 1962-3
さて昨今の新車には、冒頭に挙げた各車のような感動も驚きも憧憬も、全くありません。
もちろん受け手の感受性劣化も一因ながら、奇を衒ったうーむなデザインはあっても、固定イメージを覆し後々まで記憶に残るモノにとんとお目にかかれないのは何故でしょうか。
公器たる鉄道車両を自らの作品としか捉えていないデザイナーの所業もあるのでしょうが、やはり名車登場の時代は「未熟で不便で不潔で貧乏だけど、希望はあった」高度成長期のマインドに因るところが大きかったのでしょう。そういう意味では、ウンザリするほどの情報だけはあるものの、「成熟して便利でご清潔だけど、貧乏だし希望もない」現代では望むべくもないかも知れません。
色々とゴタクを並べましたが、最後はデビュー当時と変わらぬ3連の雄姿で締めたいと思います。
3011形は5連になる直前くらいでしょうか。私が昭和39年に初めて大阪に行った時は一部が前面貫通、ロングシートになっていました。場所不明のカット、後ろに高架ができているし、画面右が上り勾配になっていることから、野田から国鉄環状線(この頃は西成線)をオーバークロスするあたりではないかと思います。
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