2024年10月27日

鶴見線の異空間駅

 ▲鶴見線 国道 2024-5

最近のJR駅の改装といったら、とにかくオシャレかつ小綺麗にして店舗ばかりを増やし、何とかして客を駅外へ出さないようにする施策ばかり。ホームも通路もコンコースも待合所も狭苦しくて危険になる一方で、交通インフラの使命はどこ行ったと言いたくなります。

まあ民営ですから仕方ないのでしょうが、最近の「みどりの窓口閉鎖騒動」といい、安全とかサービスより消費欲を刺激することばかりに腐心していると思うのは管理人だけではないでしょう。
▲国道 2024-5

そんな中、誘客の見込みなしと見られているのでしょうか、鶴見線の各駅はこの50年ほとんど変化がありません。「強欲リニューアル政策」とは無縁の当線、しかしそこに惹かれて鉄道オタクだけでなく乗車だけを目的とした一般客が増えているのは、そうした非日常と無縁ではないのでしょう。

こちらは異世界の筆頭格、国道駅。
2014年当時は、まだ木製のラッチがありました。
▲いずれも国道 2014-5

こちらは最近の国道駅。
この数年、「推し活動」の一環として励んでいる古い商店街巡りの折、10年振りに立ち寄ってみました。ラッチがなくなった以外、「間違い探し」をするくらい変わっていませんでした。この姿のまま幾星霜、何人の乗客を見送ってきたのでしょうか。


▲いずれも国道 2024-5

変化といえばガード下の住居はベニヤ板ばかりが目立ち、郵便受けは塞がれていました。
いつまで経っても変わらないようで、少しずつ、しかし確実に変化は進んでいます。戦後居ついたであろう住人らは、一体どこへ行ったのでしょうか。








最後まで営業していたこちらの居酒屋も、最近になって店を閉じました。
▲いずれも国道 2024-5

駅舎ばかりではツマランですから、旧型国電時代のカットも幾つかアップしてみます。
初めて鶴見線に乗ったのは1976年の夏休み、まだロクサンの残党が主役だった頃でした。これ以降、思いついては幾度となく通うようになり、国鉄(JR)線ではダントツの訪問回数になりました。

▲いずれも扇町 いずれも1976-7

こちらは1977年の初夏。
この翌年、南武線から撤退した更新車が大挙してやって来ると、玉突き式にロクサン車のほとんどは駆逐されていきました。

▲上:武蔵白石 下:国道 いずれも1977-5

そして72・73形が終焉を迎える頃。
都落ちしてきた101系が活躍を始め、混色編成も見られました。


▲いずれも浅野 1979-12

大川支線用に残った2両のクモハ12。
1988年、本線の閑散時間帯用に白羽の矢が立ち、1.0kmの狭苦しい職場から解き放たれたように、軽快に飛ばす姿をしばし見ることができました。

▲新芝浦-海芝浦 1990-5

▲武蔵白石-大川 1990-8

▲弁天橋 1990-5

駅構内に初めてコンビニができたのは確か90年代の中頃、阪急十三駅の「アズナス」だったでしょうか。出来たばかりの頃は物珍しくて、管理人も野上電車訪問の折にわざわざ立ち寄ったりしました。

そしてこれを好機とみた各社、特にJRは全国的かつ加速度的に導入し、ネコの額ほどの空間にも増殖させていきます。もはやヨーロッパのターミナルのように、古い建造物を後世に残すべく脈々と守り、堂々とかつ広々とした空間を維持する姿勢など望むべくもないのでしょう。

一方の鶴見線。
車両は変転すれど、国道駅を筆頭にゴツゴツした鉄柱も、戦中の弾痕が残る施設も、工場街の空気感も不思議なほど変わらず、首都圏では抜きん出て「置いてけぼり」状態です。しかし、ここだけはいつまでも置いてけぼりを食っていて欲しいと願う管理人です。

▲武蔵白石 1977-5

▲国道 2024-5

2024年10月16日

80年代「ありふれた風景」撮り歩き その3

▲京浜急行電鉄デワ45 金沢文庫 1981-6

本日は「80年代・ついでに撮りました」シリーズその3をアップしてみます。

貧乏学生も2年目に突入、すっかり板に付いた1981年。
相変わらず財布に余裕はないものの時間だけはありましたから、何かにつけてヨドバシカメラの「詰め替えフィルム」を入れたオンボロ機片手に、東京のデンシャをあちこち撮り回るようになっていました。

こちらは沿線の友人宅にしけ込む際の撮影だったでしょうか。
初体験だった初代600形「快特」の走りと、中間駅を減速もせずお構いなしに通過するシーンにえらく衝撃を受けたのを憶えています。





ダルマさん電車もまだ新参者。
側面の塗色もデビュー当時のままでした。京急伝統の「片扉・オデコ一灯」も、これ以降のメンバーから潮目が変わってきます。
▲いずれも能見台-金沢文庫 1981-6

金沢文庫に隣接した車庫。
道路からお気軽に観察できるアリガターイ立地です。振り返れば東急車両製造(現:総合車両製作所)の工場を覗き見ることもできました。

デト30形は木造車の改造名義でお隣の東急車両で製造、1989年に後輩格のデト11・12形が登場するまで工事用や牽引車として活躍します。現役時代と変わらぬ姿のデワ40形もお昼寝中でした。

▲いずれも金沢文庫 1981-6

学生時代、所属していた鉄研には私鉄各社をテリトリーとする「クセ強マスター」がそれぞれいましたから、彼らから撮影ポイントを聞いたり或いは難しい講釈を拝聴したりしながら、それまで無知蒙昧だった大手私鉄に開眼したものでした。

西武線は時あたかも2000系が版図を拡大、在来種、特に451系が引退したり第二の職場へ散ろうとする頃。上京するまで無縁だった西武線を随分と記録に残せたのも、マスターのお蔭でした。

▲西所沢 1980-5


▲撮影場所失念・・・ 1980-5

▲元加治 1980-5

クハ1411形最晩年の頃。
既に中間に入ってしまい、特等席も特等でなくなっていました。

▲いずれも1981-2

東武鉄道は73・78系を追って結構な頻度で出向いています。
標的は専ら彼らや5700系、そしてバラエティ豊かな電機でしたが、ウンザリするほどやって来た8000系一派にももう少しカメラを向けておくべきでした。


▲いずれも小菅 1980-5



▲いずれも曳舟 1980-4

国鉄電機の中では驚異的な長命を保ったED16。
最後の縄張りだった青梅線にもEF15や64が配備され始め、彼らの牙城もいよいよカウントダウンに入ります。

▲いずれも拝島 1981-7

京王線も、腰を入れて撮ったことはないけど「何かのついでスナップ」を稼いだ路線のひとつです。しかし写っているのはグリーン車こと1000・2000系列ばかりで、1000回以上は乗っているであろう3000系や6000系のコマがほとんどない体たらくでした。
▲いずれも明大前-下高井戸 1980-12

少し前、長く勤めた職場を去る頃から、首都圏の私鉄デンシャ現役世代も記録しておこうと思い立ち、早起きする日が増えてきました。できれば昭和の匂いが残る駅風景とのコラボを狙おうと安物デジカメ片手に歩き回るも、やはりそう簡単にはいきません。

それに、平成半ば以降に生まれたデンシャには「どうにも受け入れ難い」デザインも目立ってきました。気に食わなければ速攻で削除できるのがデジカメなのに、シャッターを押す気にすらなれない、というのも困りモノです。

視界に入るものなら分け隔てなく、何にでもカメラを向けていた純真無垢な鉄道少年マインドも「遠くなりにけり」ということなのでしょう。

▲飯能 1980-5

2024年10月9日

100万アクセスになりました


▲新潟交通 六分 1988-5

いつも小ブログをご覧いただき、ありがとうございます。

最近アクセス数の低迷、プラス管理人の体力&精神力減衰などでめっきり低空飛行になってしまった小ブログですが、お蔭様で先日100万アクセスを達成することができました。

改めて御礼申し上げます。

「山のように溜まったフィルムを全部データ化する」と意気込んだのが10年前でした。
フィルムのデータ化という、この上なく地味でツマラン作業のモチベーションを上げるため、成果物発表の場として始めた小ブログ。雨垂れ石を穿つではないですが、早9年目を迎えることができました。

▲栗原電鉄 沢辺 1994-8

▲新潟交通 六分 1990-9



▲南部縦貫鉄道 後平-坪 1997-2


▲弘南鉄道 新石川 1986-8

引き続き管理人の私鉄訪問記、鉄道少年時代の色褪せたスナップなどなどが中心になりますが、古い手持ちの記録や切符の「見せびらかしコーナー」、商店街徘徊シリーズも併せて宜しくお願い致します。

▲銚子電鉄 外川 1959-4


▲憧憬の世界だった軽便鉄道の切符も



▲下町商店街めぐりも加速したいところです 大阪市西成区 2023-1

日々、経年劣化に抗う老年時代を迎えた管理人。
しかし一方で、写真技術と画像処理の腕はまだまだ円熟の境地とは言えない状況です。まあ趣味の分野だし、自身の生命維持に努めながらマイペースで続けていきたいと思います。

今後とも小ブログを宜しくお願い致します。



▲野上電鉄 紀伊野上 1993-6