1981年の夏休み後半、持病のゼンソクが少し落ち着いてくるや(→→ その顛末はこちら)、またも懲りもせず東北へ。
中学時代、廃止間近の仙台市電と栗原電鉄を一覗きして以来の東北行でしたが、目的は北東北私鉄の初訪問でした。主目的の弘南鉄道でまる一日を過ごした翌日、弘前の安宿から五所川原へ向かいます。
当時の五能線には結構な本数の客レがあり、客車は全て鋼体化車の60系列。
既に東北線では絶滅危惧種で、何年か振りに乗った背摺り木造+白熱灯に興奮したのを憶えています。
▲いずれも五所川原 1981-9
茶色一色の客レを最後まで見送った後は、いよいよ津軽鉄道初乗車です。
ホームでは入換え作業の真っ最中で、ナハフ1200形と貨車でミキストを仕立ているようでした。まだ上屋がなく構内全体を見渡せ、しばらく入換えを文字どおり高みの見物です。
最も見たかったオハ31形客車も昼寝中。
できれば彼らに乗りたかった所ですが、駅員さんに聞いてみると「夜まで動かん」由、ちょっとガッカリです。
あちこち修繕されてはいますが、木を多用した車内はそのまま。
最低限の吊り広告しかないのも好感が持てます。妻面に掲示された俳句は社内俳士の手になる作で、いつからこうした文化があったのでしょうか。
黒い貨車をずらりと繋いだミキストに乗車、先ずは金木を目指します。
▲いずれも津軽五所川原 1981-9
名所の築堤に陣取り、折り返しを待ちます。
▲いずれも嘉瀬-金木 1981-9
次は車窓からアタリをつけた毘沙門で下車してみます。
キハ24025・24026は千葉からやって来た国鉄キハ11形でした。
▲毘沙門 1981-9
周辺に人家はおろか建物らしきモノが見当たらず、森と田圃が広がるだけでした。乗降客は数人、列車の半数は通過してしまいますが、何のために設置した駅なのでしょうか。
▲上:毘沙門 中:毘沙門-嘉瀬 下:津軽飯詰-毘沙門 いずれも1981-9
突然多くから「パアン」と聞き慣れない汽笛が聞こえて来ました。
慌てて構えると珍客の登場、陽が高いうちから工事列車とは何か事情があるのかも知れません。
▲嘉瀬-毘沙門 1981-9
今となっては贅沢ながら、国鉄形キハが行ったり来たりにどうにも飽きてしまい、終点を究めずにこれで引き揚げることにしました。構えること2時間、結局冒頭カットの老夫婦以外に乗降客は現れませんでした。
弘前行の車内は混雑していました。
何処も同じ勤め帰りの風景ながら、都市圏の通勤デンシャとは全く違う空気感です。客層が違うこともあるのでしょうが、白熱灯と木造りの車内がそうさせているのでしょう。
オハ61系客車の床下機器を見るとディーゼルカーについている温風ヒーターがあります。混合列車の編成を考えてついていたのでしょうか。蒸気機関車が牽引の列車なら蒸気暖房が供給できるのですが、DE10だと無理な状況だったでしょうか。あと希少だった思いますが、オハユニ61が現役の画像は初めて見ました。
返信削除津軽鉄道のオハ31系は今でも鉄道博物館で見ることができます。細かいところを除くとほとんど変わらないです。もちろん石炭ストーブも同じです。
taiitisさん
返信削除この時見た五能線客レは混合列車ばかりだったと記憶しています。それも黒い貨車がずらりと連結されていたり2・3両だったりと小口輸送が根ざしていると実感したものでした。オハユニは流石にこの時代も希少種で私もこれが最初で最後でしたが、すれ違った列車でスハニ37というのも見掛けました。
オハ31は最も乗りたかった車両でしたがこの時は叶わず、翌年のストーブ列車で雪辱を果たしました。
津軽鉄道は、夏場の日中は専らキハ24000形2連が往復していましたが、9月は混合列車が多数活躍ですね。米の出荷時期が訪問の狙い目だったのかと、今になって気が付きました(笑)。オハ31の補修を重ねた姿は、北国の自然環境の厳しさを感じます。
返信削除五能線のオハ61系鋼体化客車は、高校生のいたずらなどで、内装は傷だらけでしたが、堂々の6両編成で驚きました。大柄で切妻の車体に、木造車譲りの寸法の小さい座席が、どことなくアンバランスですね。
緑の猫さん
返信削除いや、予備知識などは全くなかったので、混合列車に出会えたのはまさに偶然の産物でした。キハも国鉄形ばかりでこの時は飽きてしまいましたが、一日粘るべきでしたね。
白熱灯のオハ61形は本当に興奮してしまい、この時は用もないのに鯵ヶ沢まで往復しています。座席の端の、背ずりがなく木の壁に直接寄っかかるのにはビックリしました。