2024年7月27日

おけいはんの曇り空 その2

▲京阪電鉄1809ほか 私市 1981-2

さて、相変わらずの春時雨ながら次は交野線に向かいます。
こちらも宇治線と同じく多彩な顔触れに会えるため、今回の主目的の一つでした。

枚方市に着くと、いきなりやって来たのは本線の1800系。
戦後の一時代を担った1700・1800系は管理人の大好きな一派です。支線に押し込められていると思い込んでいただけに、ちょっとビックリでした。

▲いずれも枚方市 1981-2

先ずは対向ホームからお手軽に撮れそうな宮之坂へ、ここで本日の出動メンバーを押さえておきます。ここでも1300系が大活躍中でした。1枚目、左端で構えているのは今回の旅程を考えてくれた鉄研メンバーです。




▲いずれも宮之阪 1981-2 

管理人ごヒイキのデンシャも運用中。
しかも1700系と1800系、初代と2代目特急車が仲良く手を組んでとなれば俄然力が入ってきます。特急車塗装に伝統の鳩マークを掲げて疾走する姿をしばし妄想しました。





▲いずれも宮之坂 1981-2

私市駅。
ホームが広い上に上屋も途切れていますから、観察には持って来いです。

1800系は京阪の初代テレビカー。
1700系と外見的にはほぼ同じながら、カルダン駆動に台車にと技術の粋を集めて1953年に登場しました。砲弾形の前照灯も魅力的です。
▲いずれも私市 1981-2

私市からてくてく歩きます。
ごヒイキ電車をカッチリとフレームに入れながら隣の河内森が見える辺りまで来ると、突然視界が開けました。

▲いずれも河内森-私市 19681-2

しばかくこの高台で粘りました。
カーブの左右から構えていると、「危のうございますから白線の後ろへ下がって・・・」という案内放送が響いてきます。「危のうございます」とは聞いたことのない言質、流石は電車王国関西などと妙なところで感心してしまいました。

河内森駅は1面1線とまるでローカル線のような雰囲気。複線化された現在は周辺の風景と共に激変しているでしょう。


▲いずれも河内森-私市 1981-3

薄日が差してきました。
1700・1800系を総天然色で捉えたくなり、まだフィルムは序盤ながらカラーに入れ換えます。これをやると巻き戻しの途中でうっかり全部巻き込んでしまい、残りのコマを断念する破目になるので毎回緊張しますが、カメラが1台しかない者の宿命でした。






▲いずれも河内森-私市 1981-3

釣果にすっかりご満悦、河内森の枚方市側で1300系を捉えて終了です。

▲交野市-河内森 1981-3

1700系・1800系ともに、この後間もなく襲来する昇圧の波に飲まれる形で引退。
うち1801と1802は寝屋川車庫で保管され、一時期保存の話もあったようですが叶うことはありませんでした。もし特急時代の晴れ姿に復元されていたら、万難を排して赴くところでしょう。

さて、引き続き高千穂に向け長い旅を続けます。
この後は旧型国電の終焉迫る宇部・小野田線に丸3日粘って九州入りを果たしますが、しかしここでも西鉄や三井三池、熊本電鉄と散々寄道をすることになりました。
▲中書島 1981-3

2024年7月17日

おけいはんの曇り空 その1



▲京阪電鉄1809ほか 河内森-私市 1981-2

1981年の鉄研「追い出し合宿」は九州・高千穂。
合宿地へは現地集合でしたから、もとより真っ直ぐに向かうハズはありません。各自九州ワイド周遊券片手に、どう寄道をしながら現地入りを果たすか頭を捻っていましたが、山陰経由や北陸経由、果ては東北への夜行急行に乗り込む者など、如何に趣向を凝らしたルートにするかを競い合っていました。

「乗り潰し」にはそれほど拘らない管理人は、当時スタンダードだった「大垣夜行」で出発。「京都の私鉄電車を総なめにする」という友人の尻にくっ付き、叡電や阪急そして京阪電車の初訪問を果たすことにしました。




▲上:桂 中:八瀬遊園 下:京津三条-東山三条 いずれも1981-2

さて叡電を丸2日歩いた翌日は、生憎の雨。
めげずに先ずはこちらの駅で宇治線主力メンバーを押さえます。時あたかも昇圧に伴う劇的とも言える世代交代を間近に控えていた頃でした。

▲中書島 1981-2

「スーパーカー」こと2000系は1960年代の大量輸送時代を担った立役者。
タマゴ形のモノコック構造に3扉、オールM車の高加速性能に電力回生ブレーキと京阪の新しい通勤車のシンボル的な存在になりました。この後間もなく全車が2600系に生まれ変わります。




2代目600系は1961年、昭和初期に登場した初代600型の機器に新造車体を載せて誕生。
吊掛け車ながら更新に次ぐ更新を受け、本線の急行から支線ローカルまで幅広く運用されていました。複々線区間をフルノッチで飛ばす姿も見たかったところです。

▲いずれも中書島 1981-2

本線メンバーも押さえておきます。
先に引退したばかりの5000系がまだ最新鋭の時代。2000系の後輩格、2200系も今なお残る最古参組となりました。


▲いずれも中書島 1981-2

雨も小降りになったところで沿線へ、先ずは宇治線からです。
特急で鳴らした1900系は、この後の昇圧化・冷房化と大手術を乗り切り、2008年まで長命を保ちました。


▲いずれも六地蔵 1981-2

宇治線では最も左右の開けた地点でしばらく粘ります。
1300系は戦後間もなく登場した省規格形で、小型車オンリーだった京阪の大型化のきっかけを作りました。
▲いずれも桃山南口-六地蔵 1981-2

六地蔵の宇治方へ移動。
かなり窮屈なフレームながら、勿論押さえておきます。



▲いずれも六地蔵-木幡 1981-2

ここから宇治までは国鉄奈良線が並行。
1879年生まれのこちらの方が断然先輩格ですが、キハ35がノンビリと走るローカル線の風情でした。

▲桃山-木幡 1981-2
                             
これにて宇治線は終了、次は交野線に移りました。
・・・次回に続きます。
▲河内森-私市 1981-2

2024年7月7日

「じゅうかん」と「とわかん」

  ▲南部縦貫鉄道キハ102 野辺地 1981-9

1981年の夏休みも終盤戦。
長い休み期間、前半はアルバイトで旅費を稼ぎ、後半の撮影旅行で全てを費やし見事すっからかんで帰ってくる、というのが恒例の過ごし方です。しかし、この年は北陸行でのご乱行が祟ったのか持病のゼンソクが大暴走、しばらく悶絶する破目になってしまいました。

その顛末についてはこちらをどうぞ(切符画像もあります)。

蝉時雨の蒲原鉄道 →→→ その1 / その2

これに懲りてそのまま養生すれば良いものを、せっかくの夏休みがもったいないと症状が少し落ち着くや、またも急行「津軽」に乗り込みました。目的の第一は弘南鉄道ながら栗原電鉄以北は初、ここは周遊券をフル活用して北東北の私鉄を早周りです。

津軽鉄道を訪問した翌日は野辺地へ、目的はもちろんレールバス初乗車。
羽目板剥き出しの跨線橋を渡り終えると、眩いばかりの朝陽を浴びながら待機していました。
▲野辺地 1981-9

これに乗るべくホームで待ち構えていると、やって来たのは国鉄キハ10のキハ104。
通学生がどやどやと降り寸刻の喧騒が流れたと思いきや、慌しく折り返して発車して行きました。

今考えると迷わず104の方をターゲットにすべきだったのでしょうが、当時は国鉄形より断然レールバスの優先度が高かったですから、こちらには眼もくれず次列車を待ちます。


▲いずれも野辺地 1981-9

待つことしばし、奥に停まっていたキハ102が滑り込んで来ました。

▲野辺地 1981-9

「ダンダン、ダンダン」という足先から脳天を突き抜ける律動を堪能しているうちに、あっという間に七戸着。構内には国鉄からの貨車が並び、貨物ホームも残っていました。


キハ103の出自は常総筑波鉄道。
当初から予備的な存在で、動く姿を見たことがありません。1980年5月、キハ104の登場と入換えに廃車になっていますが状態は良いように見えました。

▲いずれも七戸 1981-9

七戸から少し歩き、乗ってきた列車の折り返しを捉えて終了です。

▲盛田牧場前-七戸 1981-9

この当時多くの同好者がそうしたように、七戸からバスで十和田観光電鉄に移動。
ちょっと物足りない気もしますが、1日でちょうど両方とも「乗って撮って」をこなせる定番のコースでした。

十和田市に着くとED402が入換え中でした。
1962年川崎製で、凸形ながら近代的なスタイルです。


▲十和田市 1981-9

先輩格の日立製ED301。
電車と共に電化開業時に導入された電機で、ED402登場後は予備機になりました。この2両は1984年の貨物廃止後も工事用として残り、廃線イベントで花道を飾ります。
こちらも電化開業時に登場した2400形。
戦後製の大人しい印象ながら均整の取れたスタイルで、何と言っても塗装が秀逸でした。前面に「モハ」「クハ」と表記している例はあまりないでしょう。



▲いずれも十和田市 1981-9

沿線は住宅地ばかりですが、木立が見えた古里で衝動的に下車してみました。

▲七百-古里 1981-9

踏切で陣取っていると、背後から「パアン」と電車のような汽笛。先ほどの編成が三沢から戻ってきました。




隣の七百までてくてく歩きながら、本日の運行当番を押さえておきます。
電車の総勢は7両とささやかなもので、これ以外に元定山渓鉄道の1200形もいましたが、この日は整備中でお休みでした。


こちらはもう1編成、モハ3400形+クハ4400形。
3400形は1955年生まれにしては洗練されたデザインで、「東北一のデラックス電車」として注目されました。

▲いずれも七百-古里 1981-9

戦前製の無骨なデンシャがいないせいか、これだけで退屈してしまい早々に引き揚げます。
この後どうしたのか、フィルムには何も写っておらず記憶も抜けていますが、何を思ったか帰りは急行「十和田」に乗車、延々と常磐線を上りながら帰途に就きました。

元から減少傾向だった「とわかん」の乗客数は、先の大震災によって拍車がかかり2012年春に廃線に。軽便時代を含め、90年の歴史に幕を下ろしました。

▲七百-古里 1981-9