2024年3月30日

80年代「ありふれた風景」撮り歩き その2

▲東京急行電鉄デハ3478ほか 蓮沼-蒲田 1981-2

田舎高校を出て上京して半年、4畳半下宿の貧乏学生生活も板に付いてきた頃。
今考えると、思いつきで被写体になり得るデンシャは山のように転がっていた時代、しかし残念ながら腰を据えて撮り回ったのは数える程度という体たらくです。あまりにも当たり前すぎて被写体にすること自体考えなかった上に、首都圏の通勤車にカメラを向ける者が殆どいなかった事情があるかも知れません。

数少ない記録は何かの道すがらか、所属していた鉄研の同期生に誘われて出向いた時の成果物くらいながら、塵も積もればナントカで結構な枚数が貯まってきました。という訳で、先日に続き第二弾をアップしてみます。


▲小田急電鉄デニ1303 東林間-中央林間 1980-5

先ずは京急です。
鉄道少年時代から縁が薄く、品川でスナップした程度の記録しかありませんでした。この時は沿線の鉄研メンバー宅に転がり込み、残り少なくなった吊り掛け車を撮り歩いてみました。

デハ500形は戦後初の2扉セミクロス車にして赤・黄ツートンカラーの嚆矢。管理人世代に馴染み深い湘南顔も、この形式から採用されました。



▲上:屏風ヶ浦 下:京浜富岡 いずれも1981-2

デハ500形の通勤車版・デハ400形は1953年にデハ600形(初代)として登場。これに限らず、京急は同形式名で2代・3代がいるので非常にヤヤコシイです。

▲横浜 1981-2

次は東急です。
地上時代の田園調布駅はどこか長閑な雰囲気。8090系は登場したばかりで、これが秩父や富山地鉄を走ることになろうとは想像もできませんでした。


▲いずれも田園調布 1981-2

同じ東急でも、デハ3450形を始め往年の名車が第一線で闊歩していた目蒲・池上線は結構な数をこなしています。もちろん旧型車オンリーですから、1時間も粘るとフィルム1本くらい直ぐ終わるし、それ以前に直ぐに飽きてしまう。たった1編成のデンシャのために丸1日かける今とは比べるべくもない贅沢さでした。


▲いずれも蓮沼-蒲田 1981-2

東横線では6000系やデワが最後の活躍。
沿線風景はどこも全く別物に変貌してしまいましたが、この辺りは特に喧しいのではないでしょうか。6000系の独特のモーター音、録音しておけば良かったと後悔しきりです。


▲いずれも田園調布-多摩川園 1981-2

西武線は赤電全盛期。
一方で貨物やクハ1411形が終焉を迎えようとする頃で、西武線マスターの同期生の尻にくっ付いてはあちこち出没していました。
















▲上:東伏見-武蔵関 1981-2 中・下:いずれも西所沢 1980-5

一方の国鉄は、ちょうど旧型国電が終幕を迎えようとする頃でした。
もう「ありふれた風景」ではなかったですから、上京した1980年から鶴見線・大川支線や南武線・浜川崎支線、配給電車などはかなりの頻度で撮っています。

こちらはその年の暮れ、浜川崎支線17m車の廃車回送。
同じく引退する中原区や豊田区のクモハ40を従え、自らの足で死出の旅に向かいました。
▲立川 1980-12

80年代「ありふれた風景」撮り歩き その1 →→→ こちら

当たり前すぎて気にも留めなかった風景、当たり前でなくなる日が必ずやって来るのは自明の理。しかし、最近これがやたら早く訪れるようになったと感じています。20年後に生きているかどうかは霧の中ですが、果たして「今の当たり前」はどう変貌しているでしょうか。
▲いずれも大崎 1980-5

2024年3月22日

1955年 福井の夏

▲福井鉄道モハ12 福井駅前 1955-8

手元の古い記録から、本日は遠い日の福井鉄道と京福電鉄をアップしてみます。
時は1955(昭和30)年、まだ戦後の匂い冷めやらぬ頃で、大正・昭和初期の強者らが第一線で闊歩していた時代でした。

先ずはこちら、福鉄南越線のモハ81です。
前身は大正生まれの南海タマゴ形・電5形で、この翌年に新造車体に載せ替えられます。その後は連接車化、更には冷房化や台車の交換など新車に近い改造を受けて2006年まで長命を保ちました。
▲岡本新 1955-8

福井駅前電停のモハ61。
右書きの切符売場案内や「オリヂナルパーマネント」の看板が泣かせます。光の具合からして夏の日没前の撮影でしょうか。

当時は福武線に加え鯖浦線乗り入れ列車、田原町までの市内ローカルが縦列停車し、これらが次々に発車していく壮観なシーンが日々見られました。モハ61は1933年、市内線用としてデビューした10m強の超小型車で、後に連接車・モハ160形として似ても似つかぬ姿に生まれ変わります。
▲福井駅前 1955-8



▲こちらは転生後の姿 裁判所前-田原町 1995-8

上のカットにある売場では「市内均一乗車券」のやり取りもあったのでしょう。


▲硬券と軟券が混在していた

20年後の福井駅前。やはり高い建造物が目立ちます。
管理人世代にとっては馴染み深い電停ですが、今はこれすらも遠い過去の風景になりました。
▲福井駅前 1978-4

武生新を発車したモハ12+31。
モハ12は開業間もない1925年に登場した木造車で、福武線の主として長く過ごした後、晩年は兄貴分のモハ1と共にニセスチール化され、鯖浦線-市内直通列車を務めました。

モハ31は元鶴見臨港軌道線のモハ20形。
早くも1940年代に全2両が揃って福鉄入りし、小型で使い安かったのか福武線から退いた後も鯖浦線や南越線で活躍します。


▲いずれも武生新 1955-8
             
続いては京福電鉄です。
車両もさることながら、勤め帰りと思しきカンカン帽のおじさん、おめかしした女の子、煙草を燻らす車掌、ゲタ履きの学生らに時代を感じます。

ホデハ301形は池上電鉄の発注車で、東急が省規格形や国鉄車の割当てを受けた見返りとして、戦後間もなく4両がやって来ました。他の仲間は庄内交通や静岡鉄道に嫁いでいます。

面妖なボウコレクター(Yゲル)を背負ったホデハ101は永平寺鉄道出身。
この頃の京福は合併前の京都電燈・三国芦原電鉄・丸岡鉄道そして永平寺鉄道それぞれが発注した各車が錯綜、これに木造のホサハや珍奇な電機たちも加えると「ゲテモノ推し」の管理人にとってはまさに夢のような世界でした。
▲いずれも西長田 1955-8

ハーフ版のポジが手元にありましたので、こちらもお目にかけましょう。
ホデハ102も101と同じ旧永平寺鉄道ながら、こちらは昭和初期の「日車標準型」で全国に仲間が棲息していました。京福でも旧京都電燈・ホデハ211形や旧三国芦原電鉄・ホデハ11形と、各社がそれぞれ同系車を導入しています。



▲上:金津 下:三国港 いずれも1960年

▲武生新 1978-4

2024年3月12日

鋼体化車のワンダーランド・上信電鉄 その4(終)

 ▲上信電鉄デハ10+クハ22 南高崎-根小屋 1980-11

超地味派&不人気派、上信鋼体化車シリーズを続けます。

クハニ14も1925年製の自社発注車で、こちらは元デハ3。
仲間のクハニ10~13に比べ更新時期が2年新しいせいかシル・ヘッダーがなく、やや近代的な印象、しかし一方で間延びした車体が垢抜けない感じもします。10~13が1981年の250形・6000形投入時に引退したのに対し、14だけはその後も区間運転用に残り半年ほど生き長らえました。

▲高崎 1981-9

続いてクハ20形です。
今回全てのフィルムをひっくり返してみるも、20だけは1枚も撮っていないという体たらく。なのでお友達から拝借した試験塗装時代の画像をアップします。

クハ20は自社発注車・サハ2を1956年に鋼体化したもので、クハニ10を2扉にしたような風体でした。77年頃だったか、デハ11に続く試験塗装第二弾としてこのような奇妙な装束になりますが、元に戻ったのか未だに分かりません。増設された前照灯もどんな意図があったのでしょうか。

▲高崎 1978-8 (撮影:志村聡司)

新造扱いのクハ21。
1959年製ながら台車はブリルを履いており、台枠共々木造車発生品のリサイクルなのか他社から調達したのか、よく分かりませんでした。

▲上:馬庭-吉井 下:高崎 いずれも1980-11

こちらはクハ22。
クハ21と同様の車体ながら、こちらは豊川鉄道モハ20形をルーツとする買収国電。
川造車体のままクハニ21となるも僅か2年で鋼体化されて車体も延長、このスタイルになりました。収容力がアップしたお蔭で、デハ10とコンビを組み最後までラッシュ対応に重宝されます。



▲高崎 1981-9

最後はこちら、デキの影に隠れて入換や南高崎までの小運転に終始したED316です。
装甲車を思わせる伊那電時代の特徴的な風体から一変、箱型車体に生まれ変わり、モータや台車は木造車の発生品に換装されました。


▲いずれも高崎 1962-3


▲元はこんな形 彦根 1984-7

ED316は車体色が茶からブルー+白帯→ピンク+白帯→茶色と変転し、更に社紋が入ったりと目まぐるしく変化していきました。



▲いずれも高崎 上:1974-12 下:1992-2

1980年から始まった近代化事業の一環として、西武からやって来たデハ100形。
旧451系最後の残党で、一時期は4編成の大所帯になりました。彼の登場によって、鋼体化車は淘汰にトドメを刺された形になります。
▲南高崎-根小屋 1980-11



▲高崎 1980-11



▲馬庭-吉井 1980-11

車庫が高崎にあったため労せずして全ての電車を見ることができ、ために走行シーンを疎かにしたのは後々まで悔いを残すことになりました。デキを追い求め月イチペースで沿線に繰り出す頃には既に世代交代は終了し、後の祭り。今となっては、「ついで」に撮っていた感ありの100形や200形を記録できたのが救いではありました。

超地味&マニアック鋼体化車シリーズ、これにて閉幕です。
最後までご覧頂き、ありがとうございました(礼)。
▲高崎 1958-8