田舎高校を出て上京して半年、4畳半下宿の貧乏学生生活も板に付いてきた頃。
今考えると、思いつきで被写体になり得るデンシャは山のように転がっていた時代、しかし残念ながら腰を据えて撮り回ったのは数える程度という体たらくです。あまりにも当たり前すぎて被写体にすること自体考えなかった上に、首都圏の通勤車にカメラを向ける者が殆どいなかった事情があるかも知れません。
数少ない記録は何かの道すがらか、所属していた鉄研の同期生に誘われて出向いた時の成果物くらいながら、塵も積もればナントカで結構な枚数が貯まってきました。という訳で、先日に続き第二弾をアップしてみます。
▲小田急電鉄デニ1303 東林間-中央林間 1980-5
先ずは京急です。
鉄道少年時代から縁が薄く、品川でスナップした程度の記録しかありませんでした。この時は沿線の鉄研メンバー宅に転がり込み、残り少なくなった吊り掛け車を撮り歩いてみました。
デハ500形は戦後初の2扉セミクロス車にして赤・黄ツートンカラーの嚆矢。管理人世代に馴染み深い湘南顔も、この形式から採用されました。
▲上:屏風ヶ浦 下:京浜富岡 いずれも1981-2
デハ500形の通勤車版・デハ400形は1953年にデハ600形(初代)として登場。これに限らず、京急は同形式名で2代・3代がいるので非常にヤヤコシイです。
▲横浜 1981-2
次は東急です。
地上時代の田園調布駅はどこか長閑な雰囲気。8090系は登場したばかりで、これが秩父や富山地鉄を走ることになろうとは想像もできませんでした。
▲いずれも田園調布 1981-2
同じ東急でも、デハ3450形を始め往年の名車が第一線で闊歩していた目蒲・池上線は結構な数をこなしています。もちろん旧型車オンリーですから、1時間も粘るとフィルム1本くらい直ぐ終わるし、それ以前に直ぐに飽きてしまう。たった1編成のデンシャのために丸1日かける今とは比べるべくもない贅沢さでした。
▲いずれも蓮沼-蒲田 1981-2
東横線では6000系やデワが最後の活躍。
沿線風景はどこも全く別物に変貌してしまいましたが、この辺りは特に喧しいのではないでしょうか。6000系の独特のモーター音、録音しておけば良かったと後悔しきりです。
▲いずれも田園調布-多摩川園 1981-2
西武線は赤電全盛期。
一方で貨物やクハ1411形が終焉を迎えようとする頃で、西武線マスターの同期生の尻にくっ付いてはあちこち出没していました。
▲上:東伏見-武蔵関 1981-2 中・下:いずれも西所沢 1980-5
一方の国鉄は、ちょうど旧型国電が終幕を迎えようとする頃でした。
もう「ありふれた風景」ではなかったですから、上京した1980年から鶴見線・大川支線や南武線・浜川崎支線、配給電車などはかなりの頻度で撮っています。
こちらはその年の暮れ、浜川崎支線17m車の廃車回送。
同じく引退する中原区や豊田区のクモハ40を従え、自らの足で死出の旅に向かいました。
当たり前すぎて気にも留めなかった風景、当たり前でなくなる日が必ずやって来るのは自明の理。しかし、最近これがやたら早く訪れるようになったと感じています。20年後に生きているかどうかは霧の中ですが、果たして「今の当たり前」はどう変貌しているでしょうか。