2024年3月3日

鋼体化車のワンダーランド・上信電鉄 その3


▲上信電鉄クハニ13+デハ12 高崎 1962-3 

新幹線開通前の高崎は、分刻みでやってくる優等列車や貨物に混じって、上信越線・両毛線の旧型国電や八高線DCたちも行き交う、1日中いても飽きない場所でした。

そんな高崎駅の「0番線」からひっそりと発着する、くすんだピンク色の上信線はあまりに地味な存在で、雑誌で見かけることも殆どありませんでした。


▲いずれも高崎 上:1975-2  中・下:1974-3 


▲デハニ30 高崎 1974-12

しかし既に本で知っていた特急や電機を改めて自分で実見するのとは違い、初めて見たデンシャたちは子供心に強烈なインパクトを与えます。1973年夏に初めて高崎を訪れ、ピンク色の電車に衝撃を受けて以来、何度となく通うようになりました。

さて、マニアック上信シリーズ、電動車編に続いて制御車編です。
制御車は2形式、クハニ10形5両とクハ20形3両が在籍していました。ルーツを辿るとデハ同様に複雑ですが、大別して国電と電化時の自社発注車の二つでした。

まずはこちら、クハニ10。
出自は1925年製の自社発注車で、当初はサハニなる形式を名乗りその後サハに改造、54年に鋼体化されています。




































▲いずれも高崎 上:1973-7 下:1980-11

クハニ11も自社発注車で、クハニ10と同様の経緯を辿っています。
▲高崎 1962-3

クハニ12のルーツは大正初期に山手線や中央線で鳴らした木造院電・デハ6300形。
サハに改造後、上毛電鉄に払下げられるも時あたかも終戦直後、その荒廃振りに使い物にならんと判断されたのでしょう、程なく手放した末に上信入りしたという曰くつきでした。木造のままクハ11となりますが、1957年に鋼体化されこの風体になります。


▲高崎 1977-8

こちらは休車になった頃のクハニ12。このまま翌春にスクラップになったようです。

▲高崎 1980-11

クハニ13は上毛電鉄経由で調達した木造省電・サハ25形の台枠を利用し、これに中古部品を組み合わせクハニ12同様の車体を載せて誕生。デハ20・クハ21と共に「新造扱い三羽ガラス」の1両でした。



▲いずれも高崎 1962-3

1974年冬の姿。前面窓の桟がなくなり、側面は1段上昇式に変わっています。
こちらも1980年秋頃から休車になり、翌年春に引退します。



▲いずれも高崎 上:1974-12 下:1980-11

1960年から69年まで、上野からの直通列車「あらふね」が走っていたという話を知る人も少なくなってきました。荒船山への登山客を当て込んでの季節列車でしたが、デキが重連でダブルルーフのスハ32形を牽いて力行する姿は壮観だったでしょう。

・・・しつこくまだ続きます。


▲いずれも下仁田 1960-10

4 件のコメント:

  1. モハメイドペーパー2024年3月3日 10:26

    スハ32のとなりの客車、3軸ボギーだから食堂車を格下げしたマハ29のようですね。食堂の設備を撤去しているから実質的な重量は「ス」クラスになっていたのではと思います。

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  2. デハニ31の隣に国鉄からの35系らしき姿もありましたが、同編成はWルーフの重量車が大半ですね。
    後に80系電車に置き換えとなりますが、600V時代の上信線ではパンタグラフ1器下げた走行中の写真もありました。
    当時の80系、日によっては田町からの転用である3枚窓車やクハ47が風切る事もあったのでしょうね。

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  3. モハメイドペーパーさん

    これらのカットを見るまでは「あらふね」の存在すら知らず、重たい31系客車が耐えられるだけの軌道であったことに感心してしまいました。当時は3軸ボギーも二重屋根もありふれていたのでしょう、2枚ともブツ切れのカットなのは撮影者の関心のなさの現われでしょうね。この頃はデキもオリジナルの巨大パンタだった筈で、千平辺りを疾走ならぬノロノロと行く姿を見たかったです。

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  4. 12号線さん

    登山が国民的レジャーだった80年代までは、未明に目的地に着く超短距離夜行が目白押しでしたね。この記事のため少し調べてみましたが、浅草から赤城経由中央前橋行があったことを知り驚いてしまいました。80系4連が上信線を行く姿はちょっと想像できないですが、途中は夜も明けやらぬ富岡で小休止したのでしょうか。

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