2022年10月23日

丸子線の記録から



▲上田丸子電鉄モハ3330形・EB4111 1963-6 八日堂 

現在の2代目上田電鉄が上田丸子電鉄と称していた1960年代は、丸子線・西丸子線・真田傍陽線と路線が賑やかでした。管理人が間に合ったのはもちろん別所線だけですが、好きな電車ベスト5にも入る「丸窓」ことモハ5250形の現役時代を堪能できたのは今でも幸運だったと思います。

もともと丸子線は「丸子鉄道」、真田傍陽線・別所線が「上田温泉電軌」という別会社ということもあって、それぞれ独自のオリジナル車を始め、多彩で個性的な電車たちが闊歩していました。
・・・という訳で、今回は手元の古い記録から丸子線をアップしてみます。
▲せめて切符で当時を偲ぶ

先ずはこちら、一見して「気動車電車」のモハ3220形。
手持ちのサハに東急から調達した目蒲デハ1の下回りを合体させて4両が誕生、うち2両は西丸子線用のモハ3210形になりました。元々のサハは全国各地に生息した日車製ガソリンカーで、後年これまた各地で電車や客車として余生を送っています。
▲上:丸子町 下:電鉄大屋 いずれも1963-6

元東急デハ3100形のモハ4360形。
大正末期らしい四角四面の頑丈そうな風体で、全3両が丸子線用でした。
仲間が熊本電鉄や加悦鉄道に嫁いでいますが、後者は碌に稼動しまいままうーむな休憩所に変身しています。「加悦SL広場」が閉鎖された今はどうなっているでしょうか。







▲いずれも丸子町 1963-6

丸子線は上田東を出て2つ目の上堀から信越線に寄り添い、更に5つ先の電鉄大屋まで並行して走っていました。
▲八日堂-上堀 1963-6

八日堂駅に到着するモハ3330形。
3330形は1924年の電化開業時に導入された丸子鉄道オリジナルで、木造ながらこの時期としては近代的なスタイルでした。1965年、最後まで丸子線から出ることなく引退しています。
▲八日堂 1963-6

整備中のこちらは、山梨交通からやって来たばかりのモハ2340形。
丸子線廃止と共に一旦別所線に移るもほとんど動かないまま1971年に江ノ電へ、800形として長く活躍したのは周知のとおりです。


伊那電の下回りに東急クハ3220形の車体を載せ替えて誕生したクハ271。


▲いずれも丸子町 1963-6

可愛らしいスタイルのEB4111は丸子鉄道が導入したGE製電機。
EB4110形とは面妖な形式名ですが、これは電車と同様に出力(千の位)・制御機器(百の位)・全長(十の位)という付番を適用しているためでした。

既にこの頃は貨物の主役はED25やED2210が占めており、ほとんど昼寝を決め込む日々だったようです。1963年に別所線に移り小運転や入換えに従事するも、丸子線廃止と共にまたもED25に追われるように仕事を失いました。
▲八日堂 1963-6


▲貨物廃止後はED25も置物状態になった 1984-7

電動貨車然としたED2211も丸子鉄道の発注車ながら、こちらは国産。
お世辞にも格好いいとは言えないデザインは、他に例を見ない独特のものでした。
▲上田東 1963-6

上田東駅。
旅客線は1線突っ込みながら、堂々たる駅舎を構え側線もありました。

真田傍陽線が国鉄駅に乗り入れたのに対し、こちらが街外れにターミナルを構えたのは発祥の地ではない事情からでしょうか。尤も国鉄駅と同等以上に商店や娯楽施設が充実し、街自体は賑やかだったと聞きました。

▲上田東 1963-6

ところで、上田のもう一つの魅力は電車の色。
1954年頃から採用された紺とクリームの塗分けはどの電車にも似合い、これほど秀逸な色はないと今でも思いますが、これは国鉄富山港線からやって来た元伊那電(初代モハ5260・クハ261)が纏っていたものでした。

他社からの転入組がきっかけとなり在来種の塗装を一新するという例はさほど多くなく、秩父鉄道のデキが松尾鉱業ED50と同じになったり、栗原電鉄が西武のM17形購入を機にお馴染みの塗分けになったのが良く知られたところでしょうか。


▲丸子線廃止を契機に「上田丸子電鉄」から「上田交通」へ

▲孤軍奮闘の別所線 舞田 1985-1

2022年10月14日

特急街道 70´s その2

 ▲181系「とき」 上野 1975-10

新幹線博多開業に伴う1975年3月のダイヤ改正は、関東の鉄道少年にとって大事件でした。「月光」「つばめ」「はと」「しおじ」「山陽」といった名列車の全滅、「あかつき」「彗星」の24系化・・・憧憬の対象が一気に消えていく中、かといって大阪や岡山へ出向く術もなく、鉄道誌の特集記事を貪り読んでウサを晴らすしかありませんでした。

一方、関東の優等列車網は逆に充実強化され、特に上野口の特急列車はバリエーションが一段と華やかになりました。忍び寄る新幹線を横目に、それはまるで消える間際の線香花火のような、「灯滅せんとして光を増す」を体現するような、最後の一閃だったのかも知れません。

▲特急「あけぼの4号」 尾久-赤羽 1980-5

さて、次は上越線です。
上越線の看板列車と言えば「とき」であることに異論はないでしょう。
1962年に登場した「とき」は上越線初の特急にして181系のデビュー列車。東北線の「ひばり」と共に14往復を誇ったL特急の代表格でした。




▲いずれも高崎 上:1977-8 下:1976-2



▲上野 1977-5

新製間もない183系1000番台。
真新しさはありましたが、サシの連結がありませんでした。この後急速に181系の領域を侵食していきます。
▲高崎 1974-12

次は信越本線です。
管理人世代にとっては、やはりここは181系「あさま」になるでしょう。一時期20往復を誇った長野特急の象徴は1997年の新幹線開業と共に廃止、「ヨコカル」もレールもろとも消えていきます。


▲軽井沢 1974-3

▲高崎 1974-12

「あさま」の基本は181系ながら、1975年に189系に統一されるまで間合い運用の489系や489系200番代なども見られました。

▲上野 1975-1


▲高崎 1974-12

北陸方面へは信越線経由の「白山」と上越線経由の「はくたか」コンビが務めます。
▲高崎 1975-6

上信越線下りの優等列車専用ともいうべき高崎駅1番ホーム。
新幹線開業後は役目を失い、現在は1番線そのものが廃止されてしまいました。


▲高崎 1974-12

▲上野 1975-10

温泉特急「白根」や羽越線経由秋田行の「いなほ」も外せません。「白根」は東海道線の「あまぎ」と共に、157系最後の仕事でした。
▲上野 1973-9

▲上野 1978-9

金沢夜行を務めるのは伝統列車の「北陸」。
戦後も落ち着かない1950年に早くも急行として登場、長い旧客時代が続いた後は75.3改正で20系化、更に78年に14系化されます。新幹線開業後も細々とながら2010年まで余喘を保ちました。



▲いずれも上野 上:1978-9 下:1980-4

「ひたち」は1969年の運転開始当初はキハ81による季節列車でした。
その後のダイヤ改正の度に本数や運転区間を徐々に拡大、常磐線の看板列車になっていきます。

▲いずれも上野 上:1973-9 下:1980-5

常磐線経由青森行の「みちのく」。
この頃、寝台列車や新幹線を除けば「白鳥(大阪-青森)」、「まつかぜ(大阪-博多)」に次ぐロングランでした。1日1往復、食堂車やグリーン車も併結された堂々の13両編成は特急の名に相応しい列車ですね。


▲上野 1978-9

常磐線の夜行列車といえば「ゆうづる」です。
最大7往復を誇り、最後のC62牽引特急としても名を馳せました。C62ラストナンバーが赤いヘッドマークを付けた晴れ姿をご記憶の方もいるでしょう。


▲いずれも上野 上:1975-1 下:1975-7

エスコートした電機も欠かせません。
管理人世代にとっては何といっても「EF80+20系」が思い浮かびますが、残念ながらヘッドマークは1973年から外されてしまい、復活する頃には既にEF81に交代していました。

▲いずれも上野 上:1978-9 下:1980-5


多くの鉄道少年らは1978年に到来する「ブルートレインブーム」に狂奔し、その波に乗って昼行特急も一躍人気者に伸し上がります。TVや雑誌はこぞって特集を組み、列車を舞台にしたミステリーが売れ、「○○大百科」なる本が相次いで発行されました。

しかし、時あたかも国鉄解体へと突き進むスタート地点、相次ぐストライキと減量ダイヤ改正によって国鉄離れに拍車がかかり、同時に多くの列車が消えていきます。それと前後してブームの熱狂も潮が引くように消えていきました。

泡沫のブーム去りし後もそのままデンシャを追い続けた者、忘却の彼方になった者、管理人のように追う対象が変わった者。辿る途はそれぞれ、しかし上野が脳裏に深く刻まれた存在であることに変わりはないでしょう。

上野駅20番線のこと →→ こちら
上野口の20系客車 →→ こちら
夏がくれば~急行列車の思い出 →→ こちら
上野駅23:30 →→ こちら

▲上野 1977-5

2022年10月4日

特急街道 70´s その1

▲583系「みちのく」 上野 1978-9

1970年代の上野。
50代以上の元鉄道少年ならばコンパクトカメラ片手に高架・地上ホームを行ったり来たりしながら、朝から晩まで粘った方も多いことでしょう。

当時の東北本線や上信越線、常磐線は特急列車が錯綜を極め、しかも同じ列車名で複数の形式を使ったり電車と客車があったりしましたから、当時の鉄道少年らをワシ摑みにしたのも当然でした。彼らは「全ての列車で全ての形式を」コンプリートすべくホームを文字どおり奔走し、当然管理人もその中の一人でした。

しかし当時の撮り方は皆同じで、列車の先頭を大写しにするスナップばかり。
あと三歩、いや十歩退いていれば乗降風景や駅全体の空気感が写り込んだだろうに、と未だに悔いること数知れずですが、今回はそんな少年時代のオソマツ写真からお送りします。


▲上野 1978-9

先ずは東北本線です。
どの路線にも看板列車というかエース級の列車がありましたが、ここはやはり15往復を誇った「ひばり」でしょう。1961年にキハ82で運行が始まった伝統ある列車で、特に485系ボンネット形は東北特急の象徴でした。
▲栗橋-古河 1977-8



▲上野 1978-9

ボンネット形と並んで多く見られたのは485系200番代。
1970年代後半から非貫通の300番代へと交代が進み、東北特急の新しい顔になっていきます。

▲上野 1977-5



▲間々田-小山 1975-11

▲上野 1975-1

異彩を放っていたのが1往復(下り4号・上り10号)の583系。
1973年から5年間だけの運行でした。ヘッドサインのロゴは微妙に異なる2種類がありました。
▲栗橋-古河 1977-8

▲上野 1974-8


▲小山 1977-5

「ひばり」と並んで人気列車だったのが青森行の「はつかり」。
元々はC62の牽く常磐線特急にして初の東北特急、そしてキハ81がデビューを飾った列車であることは周知のとおりですが、管理人世代にとっては583系の代名詞的な存在でした。


▲栗橋-古河 1977-8



▲間々田-小山 1975-11

▲上野 1978-9

「ひばり」や「はつかり」の陰に隠れて目立たない存在ながら、こちらも外せません。
山形行「やまばと」も当初キハ82で登場、1968年の山形電化と同時に485系化されています。一方の盛岡行「やまびこ」は65年のデビュー時から電車運転。双方とも本数は少ないながら、この後L特急化されました。



▲いずれも上野 上:1975-10 下:1977-5


▲間々田-小山 1975-8

秋田方面を受け持つはキハ181「つばさ」。
最後まで残った上野口のディーゼル特急でした。

▲上野 1974-1

上野を発車する臨時「つばさ51号」。
秋田特急の需要は高かったようで、盆暮れ以外でも見掛ける機会は多かったように記憶しています。グリーン車や食堂車がついていない14系での長旅はキツかったでしょうね。
▲上野 1977-5

1975年11月、奥羽線の全線電化に伴い「つばさ」は485系化されます。最終運転日には尾久で発車式が行われ、ヘッドサイン部にモールを付けて花道を飾りました。
▲間々田-小山 1975-11



▲上野 1977-5

昼間の慌しい時間が過ぎると、今度は北へ向かう夜行列車の出番です。
青森方面では伝統の「はくつる」に加え奥羽線の「あけぼの」、短命に終わった「北星」が発車していきました。

正面改札にずらりと下がった列車名の札、ホームに座り込んで待つ帰省客、澱んだ地上ホームの空気感、10系寝台のタラップ・・・夜の上野には独特の風情というか「匂い」がありました。





▲いずれも上野 1978-9

最後の20系定期特急だった「あけぼの」。
20系の象徴だったナハネフ22は一足先に姿を消し、殿の役目は切妻スタイルのナハネフ23が務めていました。
▲尾久-赤羽 1980-9

手元には「鉄道ファン」1977年8月号「特集・上野駅」が今も残っています。
本棚が手狭になる度に断舎利を繰り返し、最低限の本しか持たなくなった現在も手放せないのは、やはりこの駅がいつまで経っても特別な存在であるからでしょう。
・・・次回に続きます。
▲上野 1978-9