2024年1月30日

最後の583を追う その2

 ▲583系「みちのく」 上野 1978-9

1970年代、関東の鉄道少年にとって大阪や岡山から発車する優等列車群は憧憬の的。
管理人にとって、この50年間揺るぎない永遠のヒーローはEF58大窓機が牽く20系「あかつき」と「彗星」ですが、一方で581・583系もまた忘れられない存在でした。「月光」「つばめ」「はと」「みどり」「しおじ」「きりしま」「明星」・・・と今でも愛称が次々に浮かんできます。

この時代、遠く離れた同好者同士で写真を交換するのが流行っていて、鉄道誌の末尾にあった読者コーナーにも「交換」「譲る」「求む」といった投稿が数多く掲載されていました。ご他聞に漏れず、管理人もまた自分の拙いスナップ写真を関西の鉄道少年に送り、「『あかつき』『彗星』『月光』『つばめ』があったら是非お願いします!!」などと手紙を添えたりしていました。

▲こちらからは東北・上信越特急や東武の写真を送りました

しかし実物に間近で触れることは遂に叶わず、1975.3ダイヤ改正で大半が消滅。遠く千尋の海の向こうに行ってしまいました。
そんな思い出があるからか、当時のダイヤ改正を特集した鉄道誌は大方を処分してしまった今も本棚の一角に残り、交換した写真はすっかり色褪せながらもアルバムの片隅で眠っています。


▲文字マーク時代を見たかった 上:博多 下:新大阪 いずれも1980-9

さて、次はもう一つの583系の牙城だった常磐線です。
一時期は7往復を誇った「ゆうづる」は常磐線の代表格にして初の寝台特急。管理人的にはEF80+20系のイメージですが、残念ながらヘッドマークの付いた時代には間に合いませんでした。

▲いずれも上野 上:1975-7 下:1974-8

2002年10月、この時は行楽シーズンの臨時列車として「ゆうづる」が運転されました。
イベントではないから時刻表にもしっかりと載り、駅は同業者だらけでパニック状態に違いないと思いつつも、583系の出動とあれば放っておけません。最低限の機材だけ持って、仕事帰りに寄ってみます。




マトモなカットは諦めて、アップ気味で撮ってみます。
先頭部にはJNRマークの消された傷跡が痛々しく残っていました。



「ゆうづる」人気はこの通り。
現在なら頼まれても行きたくないシチュエーションで、カメラに三脚更には脚立が錯綜していながら、しかし以外に粛々と事が運んでいたような記憶があります。

特にイガミ合いも見られず、まして職員を恫喝する輩なんてのもいませんでしたが、これは今のように「ネコも杓子も」写真や動画を撮る時代ではなかったことと、決して無縁ではないでしょう。

▲いずれも上野 2002-10

さて、最後は「みちのく」です。
「白鳥」「まつかぜ」「おおとり」と並ぶ屈指のロングラン昼間特急で、グリーン車や食堂車を連結した堂々の13両編成。まさに特急の名に相応しい列車でした。

青森を早暁に発車し延々と上ってきた「みちのく」は13:45、縄張りの20番線に到着。函館発0時過ぎの青函連絡船に接続していました。


▲上野 1978-9

こけしマークは少々うーむながら、リバイバル列車「思い出のみちのく号」が運転されるという情報を得て、この日もJRの策略に乗っかります。

これは前日に「思い出のはつかり号」で上ってきた列車が、折り返し「みちのく」になり青森に戻るという仕立てでした。先ずは大宮からの回送列車を、大勢の同業者と共に日暮里で待ち受けます。

▲上野-日暮里 2002-11

下りがやってくるまでの間、数を減らしていたこちらも押さえます。


▲上野-尾久 2002-11

光線状態や同業者の人山をクリアすることができず、下りも同じ立ち位置で。これが文字マークだったらなあ。
▲上野-日暮里 2002-11

急行のリバイバル運転もありました。
この頃は連日早起きをし、先が見えていたブルートレインも馴染みの西日暮里で押さえておきました。


▲いずれも上野-尾久 2002-11

583系はこの年以降も臨時やイベントで度々登板、しかし編成も短くなり既に満身創痍の様相でした。2003年早春に本拠地だった青森運転所が閉鎖されると、終焉の地となる仙台や秋田で細々と生き長らえるも、そこには東西の第一線で飛ばしていた全盛期の面影はもうありませんでした。
▲上野 1977-5

2024年1月21日

最後の583を追う その1


▲583系「はくつる」 赤羽-浦和 2002-10

「月光型」との出会いは小学生時代、同級生から借りた「鉄道ジャーナル」誌に大画面で載っていた東京駅での「はつかり」でした。雪にまみれた車体をローアングルから見上げる姿に一目惚れ、以来20系客車と共に最も好きな国鉄車両になりました。

2002年、この年は夏から秋にかけて臨時列車やイベント列車での出動が目白押しで、当時の管理人としては珍しく「旬」な列車を追う機会が増えた年でした。前年秋、月1ペースでこれでもかと通い詰めた名鉄揖斐・谷汲線が廃止され、その「ロス状態」から抜け出す機会を探していた時期と重なります。



▲90年代は活躍の場も多かった 尾久-赤羽 1992-8

・・・という訳で、今回は臨時にイベント列車にと頻繁に駆り出された2002年の姿を集めてみました。

先ずは夏に登場したリバイバル「ひばり」。
485系オンリーの印象がある「ひばり」は下り4号・上り10号だけは間合い運用の583系が充当。13往復になった1973年から78年ダイヤ白紙改正までの、たった5年間の運用でした。

この時はJRの儲け主義のせいか車両運用の都合か、上下列車をわざわざ別の日に運転という策動です。しかしまんまとそれに乗せられ、たった1本のために白河の一つ先・久田野で待ち構えることにしました。




撮影ポイントを物色しながら周辺をあちこち徘徊した挙句、どうしても「ひばり」のヘッドサインを強調したくて前面アップの無難なアングルを選択。

しかし、やって来たのは何とイラスト入りでした。
「リバイバル」と言うからには往年の文字マークに違いないと信じ込んでいただけに、衝撃と失望はかなりのものでした。

▲いずれも白河-久田野 2002-9

▲期待したイメージはこちら 小山 1977-5

後で知った話ですが、上野方のヘッドサインは文字だけだった由。
この時は仙台方だけの一発必中でしたから、背後は見向きもしませんでした。そんな余計な演出いらんがな!!と地団駄を踏むも、後の祭りでした。
▲上のカットとフォントが微妙に違います 上野 1974-8

「はつかり」は583系の代名詞にして東北遠距離特急のシンボルでした。
カメラを持ち始めて間もない頃、初見参の上野で最初に出会ったのも因縁の「はつかり」でした。
▲栗橋-古河 1977-8

▲上野 1973-9

2002年晩秋、同じくリバイバル運行で「思い出のはつかり号」がお出ましとの報。
東北特急「思入れ度」トップの列車ですから、これは見逃せません。多くの同業者が集まる撮影名所には食指が動きませんが、この時は陽が傾き始めたこちらで辛抱強く待ち受けました。



しかし晩秋の夕暮れは早く、本命がやって来る直前に日没。
ガッカリしている暇はなく、モノクロに切り替えて仕留めます。長年親しんだ「ミスター東北特急」でしたが、これが最後のカットになりました。

▲いずれも氏家-蒲須坂 2002-11

「はつかり」と共に長い歴史を誇ったのは「はくつる」。
青森までのロングランを最短時間で結ぶとあって、南部縦貫鉄道や津軽鉄道など東北撮影行では随分とお世話になりました。


▲上野 1977-5

この年の「はくつる」はイベントではなく、秋の行楽シーズン臨時列車として運行。
上野着がとにかく早く、始発電車で出向いても間に合いませんから、赤羽駅近くの超格安カプセルホテルに前泊することにしました。

昨今の赤羽は「住みたい街ランキング」で最上位に躍り出、「バネジョ」なるワードもあるらしいですが、当時、特に夜はコワイ街でした。駅前に出るや怪しいおっちゃん連中に取り囲まれ、「今夜泊まる所ある?」「いい娘いるよ」などと矢継早に誘われ、振り払うのに一苦労したのも今となっては良い思い出かもです。

さて明けて翌日、ホーム端からお手軽に撮れそうな川口で下車。薄明を突いてやって来る上り列車を待ち受けます。

大宮への回送列車が来る頃になって、ようやく低い陽が差してきました。


振り返ってISO800でも一枚。
超硬調に仕上がってしまったフィルムも、デジタルの恩恵で何とか見られる画になりました。


川口近くの跨線橋から「あけぼの」も捕らえます。
車内ではチャイムが鳴り、乗客らも伸びをしたり荷物整理をしている頃でしょう。

▲いずれも赤羽-浦和 2002-10

・・・とここで枚数を稼いでしまいました。
次回に続きます。
▲上野 2002-10

2024年1月13日

「高一」と「高二」



▲EF551 高崎第二機関区 1976-2

「高二(高崎第二機関区)」の区札は、カメラを持ち始めた頃からの馴染みでした。
眼前を通過するEF12、そしてその端に光る小さな札は鉄道少年の印象に残ったのか、高二には他に何がいるのだろうと気になって仕方がありませんでした。

1975年だったか、愛読していた「鉄道ファン」誌に「流線形特集」の記事がありました。
擦り切れるくらいに何度も読み返しましたが、中でも眼瞼に焼き付いたのは扉ページにあった、高二で余生を送るEF55の姿。これはもう会いに行くしかありません。

▲佐野 1976-2

突然の訪問で入場OKだろうかと不安を抱えながら、同級生らと高崎へ。
先ずは倉賀野で下車、高崎線と八高線の並走区間で露払いです。平凡な風景ながら本数を稼ぎたい鉄道少年にとっては恰好の場所でした。








▲いずれも新町-倉賀野 1976-2  

倉賀野に進入する上野行。
ゴハチやEF62が牽く信越線直通の客レは、まだ結構な本数が残っていました。

▲倉賀野 1976-2

高崎駅から適当に線路際を歩き、何とか辿り着きました。
とにかく広かった構内のどこで許可を貰い、どうやって入場したのか記憶にありません。しかし何しろユルい時代のこと、たまたま目についた構内員氏に「写真撮らせて下さい」を声をかけ、「いいよ、気をつけな」といったやり取りだったのでしょう。

さて、まずは第一機関区から覗きます。
かつて蒸機が第一、電機が第二といった棲み分けでしたが、こちらは八高線の車両基地になっていました。千葉から転属してきた異色のキハ35‐900番台も見えます。

第一機関区には吾妻線や信越線の電車たちも留置されていました。


▲いずれも高崎第一機関区 1976-2

そして機関車の牙城、第二機関区。
高崎線や上越線の主役・EF15を始め多彩なメンバーが揃っていました。EF15は長岡の最若番も顔を見せていました。




さて、本日の主目的は一番隅に佇んでいました。
吸い寄せられた「鉄道ファン」誌の写真から2年は経っていたかも知れません。しかし月日と風雨はこうも変えてしまうのか、ナンバーが外され荒れるがままに放置された姿に、少なからずショックを受けました。





隣にいたスエ385も見逃せません。
二重屋根に3軸ボギーという代物は当時でも絶滅危惧種で、関東だと茅ヶ崎機関区にいたスエ387くらいだったでしょうか。
▲いずれも高崎第二機関区 1976-2

こちらは4年後の同じ位置。
EF55は見違えるようになっていました。整備に当たり180度転回し、平行移動したようです。しかしこれが本線を再び疾駆するようになるとは、当時は夢にも思いませんでした。



スエも世代交代し、鋼体化グループのオエ61が鎮座していました。
▲いずれも高崎第二機関区 1980-11

駅に戻ります。
当時の高崎はひっきりなしにやって来る優等列車に貨物、個性豊かなローカル電車に上信電鉄・・・と丸一日いても飽きることはありませんでした。

高崎のスナップ特集はこちらもどうぞ →→→ 高崎駅寸描

2枚目、子どもらが通風口(?)の上までよじ登ってデンシャを眺めていますが、こうしたことも許されるユルい時代。叱る者も告げ口する者もいませんでした。



上信越線ローカルは高崎まで足を伸ばしていました。
両毛線・吾妻線のスカ色を加えれば、同じ駅に3種類の塗分けが一同に会す、という夢のような風景が目の前にありました。

▲いずれも高崎 1976-2