2024年1月13日

「高一」と「高二」



▲EF551 高崎第二機関区 1976-2

「高二(高崎第二機関区)」の区札は、カメラを持ち始めた頃からの馴染みでした。
眼前を通過するEF12、そしてその端に光る小さな札は鉄道少年の印象に残ったのか、高二には他に何がいるのだろうと気になって仕方がありませんでした。

1975年だったか、愛読していた「鉄道ファン」誌に「流線形特集」の記事がありました。
擦り切れるくらいに何度も読み返しましたが、中でも眼瞼に焼き付いたのは扉ページにあった、高二で余生を送るEF55の姿。これはもう会いに行くしかありません。

▲佐野 1976-2

突然の訪問で入場OKだろうかと不安を抱えながら、同級生らと高崎へ。
先ずは倉賀野で下車、高崎線と八高線の並走区間で露払いです。平凡な風景ながら本数を稼ぎたい鉄道少年にとっては恰好の場所でした。








▲いずれも新町-倉賀野 1976-2  

倉賀野に進入する上野行。
ゴハチやEF62が牽く信越線直通の客レは、まだ結構な本数が残っていました。

▲倉賀野 1976-2

高崎駅から適当に線路際を歩き、何とか辿り着きました。
とにかく広かった構内のどこで許可を貰い、どうやって入場したのか記憶にありません。しかし何しろユルい時代のこと、たまたま目についた構内員氏に「写真撮らせて下さい」を声をかけ、「いいよ、気をつけな」といったやり取りだったのでしょう。

さて、まずは第一機関区から覗きます。
かつて蒸機が第一、電機が第二といった棲み分けでしたが、こちらは八高線の車両基地になっていました。千葉から転属してきた異色のキハ35‐900番台も見えます。

第一機関区には吾妻線や信越線の電車たちも留置されていました。


▲いずれも高崎第一機関区 1976-2

そして機関車の牙城、第二機関区。
高崎線や上越線の主役・EF15を始め多彩なメンバーが揃っていました。EF15は長岡の最若番も顔を見せていました。




さて、本日の主目的は一番隅に佇んでいました。
吸い寄せられた「鉄道ファン」誌の写真から2年は経っていたかも知れません。しかし月日と風雨はこうも変えてしまうのか、ナンバーが外され荒れるがままに放置された姿に、少なからずショックを受けました。





隣にいたスエ385も見逃せません。
二重屋根に3軸ボギーという代物は当時でも絶滅危惧種で、関東だと茅ヶ崎機関区にいたスエ387くらいだったでしょうか。
▲いずれも高崎第二機関区 1976-2

こちらは4年後の同じ位置。
EF55は見違えるようになっていました。整備に当たり180度転回し、平行移動したようです。しかしこれが本線を再び疾駆するようになるとは、当時は夢にも思いませんでした。



スエも世代交代し、鋼体化グループのオエ61が鎮座していました。
▲いずれも高崎第二機関区 1980-11

駅に戻ります。
当時の高崎はひっきりなしにやって来る優等列車に貨物、個性豊かなローカル電車に上信電鉄・・・と丸一日いても飽きることはありませんでした。

高崎のスナップ特集はこちらもどうぞ →→→ 高崎駅寸描

2枚目、子どもらが通風口(?)の上までよじ登ってデンシャを眺めていますが、こうしたことも許されるユルい時代。叱る者も告げ口する者もいませんでした。



上信越線ローカルは高崎まで足を伸ばしていました。
両毛線・吾妻線のスカ色を加えれば、同じ駅に3種類の塗分けが一同に会す、という夢のような風景が目の前にありました。

▲いずれも高崎 1976-2

3 件のコメント:

  1. いつも楽しく拝読いたしております。実際に目にした車両たちなか

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  2. 失礼いたしました。実際に目にした車両たち、今となっては非常に貴重な記録であると思います。懐かしい限りです。

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  3. str.yokoさん

    ありがとうございます。
    高崎は機会あるごとにスナップを撮っていたせいか、決して近いわけでもないのに最も身近に感じる駅でした。一度にこれだけバラエティ豊かな車両が見られる所は他になかったですね。

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