2023年12月16日

炭鉱電車の春 その1

▲三井石炭鉱業31号+コハ106+ホハ202 原万田-大平 1981-3

貧乏学生時代、所属していた鉄研には「新入生歓迎合宿(5月)」「夏合宿(9月)」「卒業生追出し合宿(3月)」と年に3度も合宿がありました。
・・・といっても運動部のようなストイックな特訓をする訳ではなく、宿舎で大騒ぎをしたり車両基地の見学をするのが主目的。合宿地へは現地集合・現地解散でしたから、どこで撮影や乗り潰しをし、どんなルートで目的地に向かうか・・・これを考えるのが恒例の楽しみでした。

1981年早春、この時は九州・高千穂峡が集合場所。
九州ワイド周遊券を片手に、先ずは西へ向かう定番の「大垣夜行」で出発、叡電を皮切りに宇部・小野田線、西鉄と散々寄り道をしながら、鉄研メンバー一行は西鉄大宰府駅近くのユースホステルにしけ込みました。

▲旧型国電王国も風前の灯 雀田 1981-2

▲小型車ばかりだった宮地岳線にも変化の波 貝塚 1981-2

▲大宰府天満宮は雪模様 1981-3 

▲強烈なキャラの事業用車も棲息 二日市 1981-3

夕食後のうーむなミーティングをこなしていると、同宿者から「炭鉱電車」こと三井三池専用線の情報。専用線は鉄道誌でも滅多に紹介されない当時のこと、「衝撃的でしたよ」との報を聞いた鉄研一行は翌日の熊本電鉄訪問を急遽変更、一路三池へ向かうことになりました。

ユースで教えてもらった通り、荒尾駅から本線と玉名支線の分岐駅・原万田へ。
ホームにあった時刻表には両線とも1時間に1本程度と結構な本数が走っており、しばらくここで粘ることにました。

先ずは貨物列車で肩慣らしです。
末期は「セナ」ばかりになった貨車陣も、この頃はバラエティに富んでおり石炭車ばかりでなくタンクもつないでいました。
▲原万田 1981-3

主目的がやって来ました。
遠くからエンジ色の物体が近付づき、目の前でギギイと停まります。
初対面のBロコにロクサン形客車、そして得体の知れないコハ100形。あまりの衝撃にしばらく言葉も出ませんでした。どう表現すべきか分からず、とにかく凄いとしか言いようがありません。客車が機関車と同じエンジ色であることも、この時初めて知りました。

当時は鉄道誌に載る専用線といえば小さな投稿記事くらいでしたから、豆粒のようなモノクロ画像程度の予備知識しかなかったのでしょう。しかし情報の少ない時代だからこそ、初めて実物を眼にした時の高揚感は今とは比べ物になりません。



落ち着いて眺めるヒマはなく、あっという間に発車。
狂熱のあまりカメラを落としそうになりながら、どうにか3両とも抑えます。

先頭を務めるはジーメンス機の国産コピー・5号。
どこから見てもロクサンのホハ200形は、当初から客車として登場しています。払下げではなく省線と同じ仕様で自社発注するあたり、流石は大手鉱山会社です。

後ろのコハ100形もこれまた珍品で東芝製。
戦後間もなく、17m級木造客車の下回りに新造車体を組み合わせたと言われています。







▲いずれも原万田 1981-3

次は玉名支線の編成を狙います。
合間に石炭列車が次々とやって来ますから、退屈することは全くありません。石炭車は主力の「セナ(17t)」以外にも「セコ(15t)」と「セロ(16t)」があり形態もバラバラ、このような凸凹編成になりました。








玉名支線の列車が到着。
先ほど見送った本線列車と交換です。牽引機はL形機の自社改造といわれる31号機、客車の編成はこちらもホハ200形+コハ100形コンビでした。




▲いずれも原万田 1981-3

ここでようやく沿線に転戦です。
先ずは本線の列車を原万田駅の外れから。巨大な鉄塔を潜りながら行く姿は、三池の象徴的な風景です。


▲西原-原万田 1981-3

・・・とここで枚数を稼いでしまいました。
次回に続きます。
▲原万田 1981-3

6 件のコメント:

  1. 初めて投稿させていただきます。
    とてもいいものを見せてもらい感激しました。

    時代的にはギリギリ間に合ったはずなのですが、この頃は旧型国電の終焉期でもあったことから、エネルギーはそちらに振り向けていました。
    勿論、現在のようにインターネットも無かった時代では、これらの専用線は知る由もありません。
    私がこの専用線を知ったときには、既にこれらの通勤列車は運転されておらず細々と専用線として生き長らえていたような状況でした。

    九州には何度も足を運んだのですが、ついに現物を見ることなく廃止されてしまった次第です。

    次回の掲載も楽しみにしております。

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  2. モハメイドペーパー2023年12月17日 14:48

    コンクリート枕木にバラストたっぷりの線路。国鉄の宇部線より立派ですね。

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  3. hayakazeさん

    訪問ありがとうございます。
    この頃は私も専用線はナワバリ外でしたから、大宰府のユースに泊まらなかったらスルーしていたでしょう。ネットもなく鉄道誌でも紹介されない路線は、こうした生の情報に頼るしかありませんでしたが、情報が少ない分初めて見た時の感激がありました。ローカル私鉄のゲテモノと初対面、というケースも辛うじて残っていましたね。

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  4. モハメイドペーパーさん

    この当たりは流石はかつて隆盛を誇った大手鉱山会社、投資も惜しげもなくできたのでしょうね。ならば客車も新しくすれば良いのに、と余計な老婆心を抱いてしまいますが、そうならなかったのは社員には不運でも鉄道好きにとっては幸運でした。電機も改造は受けながらも「超」長命でしたから、これはもう余程の節約家かマニアがいたとしか思えないです(笑)。

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  5. ドアはさすがに手動でしょうけど、国鉄他のロクサンが慌てて改修行ったような三段窓は原型のままのようにも見えます。
    乗務員室ドアは後付けらしいのですが、サハ78側面とモハ63前面の組み合わせは交通博物館にも2D2の短縮ボディで存在し、S40年代半ばには駐車場の詰め所に使われていたようでした。

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  6. 12号線さん

    一般客も運んでいたら早々と2段窓にしたと思いますが、ほんの僅かな期間で止めてしまい関係者専用になったのが幸いしたのでしょうね。ロクサン車体は山陽電鉄の東二見や東武の西新井工場の詰所としてあちこちに置いてあったのを憶えています。後年撤去されたと聞いていますが、歴史的な車両だけに保存して欲しかったです。

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