2024年2月9日

夏風吹く車庫で 1976年

 ▲上田交通ED251ほか 上田原 1976-7

1976年の夏休みは、上野発23:58の直江津行「妙高5号」で長野へ。
暖めておいた「一筆書き大回り旅」プラン実行の時が来ました。先ずは長電や上田交通、松本電鉄などを見学後、再び夜行急行「きそ5号」で名古屋へ向かい、豊橋機関区や豊鉄を一覗きし、最後は新幹線経由で舞い戻るという算段でした。

薄明の長野を下車、始発列車が動き出すまでどう過ごしたのか記憶にありませんが、恐らく窓口氏にねだって入場券を所望したりDJスタンプを押したり、旅行センター前に置かれていたチラシの類を漁ったりしていたのでしょう。

さて須坂に着くや、眩いばかりの夏の陽が顔を出してきました。
当時の長電は赤ガエルの侵攻前夜で、開業以来の強者らが最後のご奉公をしていました。

▲いずれも須坂 1976-7

須坂から取って返した後は、この日のもう一つの目的地・上田へ。
信越線にはまだ旧型国電が走り、ホームには荷物台車やら売店やらも並び、小ざっぱりした今と違って賑やかでした。
▲上田 1976-7

途中から幅が急に半分になる木造跨線橋を渡り終えると、別所線の線路が伸びていました。先ずは構内外れにいたサハ2両から見て回ります。

サハ24の出自は飯山鉄道(→国鉄飯山線)のキハ。全国に同系が棲息していた日車形キハで、上田には延べ5両が在籍。サハ24は丸子線・真田傍陽線なき後まで残った、最後の1両でした。










元神中のクハ252は昇圧の日までモハとペアを組んで活躍しました。
▲いずれも上田 1976-7

さて、次はサハ62(元東急サハ3350)を従えた丸窓に乗って上田原へ移動です。
▲いずれも上田 1976-7

上田原に休むモハ5252。
リベットだらけの厳つい車体にトラス棒、お椀形ベンチレータ、塗色そして丸窓・・・どれを取っても申し分なく、管理人の好きなデンシャ不動の第1位です。3両の仲間は上田温泉電軌時代から他線に転じることなく、この地で56年の生涯を全うしました。




信濃鉄道の木造車に小田急の車体を載せたモハ5370形。丸窓と共に、750V最後の日まで走り続けました。

▲いずれも上田原 1976-7

旧宇部電気鉄道のED251は定位置で昼寝中でした。
この頃はまだ貨物列車も営業していたハズですが、不定期だったのでしょうか。


東急から借り入れ中の戦災復旧車・クハ3661。
鋼体化車のデハ3310とコンビで1975年にやって来ました。この3年後に正式な別所線メンバーになりました。

旧信濃鉄道クハ261の車体は工作室として余生を過ごしていました。
丸子線や真田傍陽線の廃線後、予備車としてやって来たサハ22や61、モハ3121は再び走ることはありませんでした。

▲いずれも上田原 1976-7

こちらは10年後の電車区。
ほとんど変わらぬ姿のまま、この半月後に終焉を迎えます。



▲いずれも上田原 上:1986-9 下:1984-7

上田原の待合室に貼られていた、手作り感100%の壁新聞。
丸窓電車はこれから30年目を迎えることなく引退してしまいました。


▲上田原 1976-7

上田原の構内は何から何まで「凄まじい」としか言いようがありませんでした。
詰所にホームを無理やりくっ付けたような、こんな佇まいは他に例がないでしょう。反対側の別所温泉方面ホームは、車庫と完全に一体化していました。
▲いずれも上田原 1984-7

再び長野に戻り、旅を続けます。
この後は松本電鉄の新村車庫を見学したり大糸線をスナップしたりして、暗くなるまであちこち撮り回りました。名古屋行「きそ5号」が出る23時過ぎまでどうやって時間を潰したのか記憶が抜けていますが、街歩きなどという小洒落た真似をするお年頃でもないですから、発車までじっと待合室にいたのでしょう。

その後も予定通りに事を運び、大回り一筆書き旅は無事に終了。
しかしこの季節、風呂にも入らず着替えもせず夜行列車2連泊を強行したお蔭か、全身汗まみれ泥だらけになりました。シャツがちょっと変色していた記憶がありますが、そんな風体のまま何食わぬ顔をして新幹線で帰ったのですから、もう呆れるほかありません。



▲長野 1976-7

▲翌日は北恵那鉄道を一覗き 中津町 1976-7

さてこの頃、相次ぐストでイメージダウンと収益悪化のスパイラルに陥っていた国鉄は、この秋に50%もの運賃値上げを実施。これが国鉄解体へのプロローグ第1章となりました。

30円だった最低運賃は一気に倍になりました。
窓口で「入場券大人3枚と子ども1枚下さい(合計100円)」が旅先での定番だった管理人でしたが、これを機に入場券集めを中止、撮影旅行の頻度も半分になりました。なけなしの小遣いから旅費を捻出する鉄道少年への影響も、また甚大でした。

▲上田原 1976-7

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