▲越後交通モハ212 旧・下長岡 1975-7
蒲原鉄道からの帰途、列車が長岡に近づくにつれて落着きがなくなってきました。
顔を貼り付けんばかりに車窓に近付け、眼を皿にして流れる景色を見つめます。
「間もなく長岡・・・」と放送が流れた瞬間、見覚えのある車両たちが視界に飛び込んできました。
「やっぱりいた!!」
思わず快哉を叫びました。
6両、7両・・・・かつての下長岡車庫に、数珠繋ぎで並んでいるのが見えます。
栃尾線の廃止から4カ月。
「何も残っていないと思うけど、ひょっとしたら・・・」という予感は的中。
情報の少ない時代だからこそ味わえた瞬間でした。
さて、長岡から小走りで向かいます。かつての主役たちが2列になってひしめいていました。
まずはこちら、上見附方にあった旧草軽モハ100形のサハ301。
巨大な×印は、近くの踏切跡を通る者に「こいつは動きませんよ」と示しているのでしょう。
続いて前回は見られなかったモハ205。
出自は戦前製のガソリンカーで、改造を重ねて総括制御車にまでなったスゴイ経歴の持主。風変わりな台車を履いています。
何しろ隙間なく繋がれているので、「引き」がなくアップで撮るしかありません。
クハ112は元モハ210、車体は何とアルミ合金製。日本最初のアルミ車とも言われていますが、こんな代物を自社で作ってしまうところは「フシギ車両生産工場」たる所以です。
こちらはクハ100形102。
新製車体+明治末期の旧小坂鉄道の下回りという、当線ならではの組み合わせです。其処彼処に遺物が転がっていたように記憶しますが、撮ったのはこれだけ。
現在なら根こそぎ持ち去られてしまうところでしょう。
▲いずれも旧・下長岡 1975-7
一部分だろうが片っ端から写しまくる、と今ならこうなりますが、この時はファインダーに入りきらないものは撮らないという勿体ないことをしています。
メモも取らなかったので果たして総勢何両だったかすら分からず、自分のズボラさに臍を噛むしかありません。
さて見終わるころには陽も傾いてきて、後ろ髪を引かれる思いで戻ります。
長岡までのレールもほとんど残っていました。
▲袋町-下長岡 1975-7
長岡では前回と同じ列車をスナップ。
この日は「北越」に200番代が入り、「白鳥」は1500番代から300番代に変わっていました。
大興奮の1日でしたが「思わぬ収穫に感激」という瞬間、もう何年も経験していない気がします。
栃尾線の現役時代 →→ こちら
うあああ~
返信削除よだれモノのお宝ゴロゴロですね! 今だったら保存団体が殺到しそうですね。
でも結局殆ど壊してしまったとは悲しい限りですね。
宵闇さん
返信削除情報が何も無かったので、上越線の車窓から見つけた時の衝撃は今でも鮮烈に憶えています。これだけで博物館一つできそうなくらい、車両や部品が残っていましたが、全てスクラップとは何とももったいないと思います。
もっと長居して部品の一つも拾ってくれば良かった、と少々後悔しています(笑)。
廃線後も車両が残っていたことは知りませんでした。
返信削除全てスクラップになったのは残念です。
一方、2年後に廃止となった尾小屋鉄道ではほぼ全車両が保存されています。
クハ68092は当時2両しかいなかったノーシル・ノーヘッダーのクハ68でした。
(クハ55のクロスシート改造車で、元は3両いましたが、1両は事故廃車済、もう1両は仙石線所属でした。)
三等急電さん
返信削除廃止後の情報については、貨物専業になった長岡線のレポートが小さく載ったくらいで、栃尾線の方は全くなかったと記憶しています。この時も下長岡車庫が上越線から見える位置になかったらスルーしていたかと思います。垂直カルダン車や草軽の客車など、歴史的に価値のある車両もあったと思いますが、尾小屋のように保存されなかったのは本当に残念でした。
クハ68についての解説ありがとうございました。
何気なく撮ったスナップでしたが、こちらの分野は詳しくなく希少車とは知りませんでした。
当時は私鉄偏重でしたが、新潟カラーの国電も少しきちんと押さえておけば良かったと思います。