2018年12月21日

お知らせ~しばらくお休みします

▲野上電鉄モハ32 動木 1988-1

いつも小ブログをご覧いただき、ありがとうございます。
公私ともに様々なことが重なってしまい、ほとんどPCに向かう時間もないまま「ネタ切れ」の日を迎えてしまいました。いつも訪問下さっている方には申し訳ありません。

画像には一応の手間をかけており、この辺を省略すればもう少しつなげることが出来ると思います。しかし、管理人が最も拘っている(勝手にですが・・・)のが「画質」ですので、やはりきちんとしたものをアップしていきたいと思います。

しばらく充電し、捲土重来を期すつもりですので、再開まで少しお待ち下さい。

▲岳南鉄道ED501 岳南富士岡 2012-10

2018年12月11日

京福電鉄永平寺線 その3・炎暑の山里

▲京福電鉄モハ251 京善-市野々 1995-8

さて、午前中を北陸鉄道浅野川線で粘った後は福井へ向かいます。
気温は35℃超、文字通り茹だるようですが、次は京福電車に乗り込んで東古市へ。

この日の標的、永平寺線はかつて旧東急の281形や鋼体化車241形の2連が定番でしたが、この頃はHゴムだらけになったモハ251・252が交代で倹しく走るだけになっていました。
▲東古市 1995-8

まずは東古市でのスナップ。
好ましい佇まいのこの駅は以前から撮りたかったシーンながら、通過するばかりでした。本日の永平寺線当番はモハ251です。
▲いずれも東古市 1995-8
 
越前電気鉄道時代からの駅舎。
駅名は永平寺→永平寺口→東古市→現在の永平寺口(2代)と変遷。丁度建築から100年目の2014年、新駅舎に役目を譲り引退しました。
付近の踏切で陣取り、何か面白い点景は撮れないか・・・としばらく粘ってみました。
▲いずれも東古市 1995-8
 
次は京善まで乗車、汗だくになりながら市野々方向へ歩きます。
咽返るような草いきれの中、モハ251がやってきました。
▲京善-市野々 1995-8
 
市野々を出た電車は永平寺に向けて一気に坂を上っていきます。
▲いずれも市野々-永平寺 1995-8
 
この時はフェーン現象のせいもあってか、凄まじい暑さ。
同じ電車が行ったり来たりにも飽き始め、そそそろ店仕舞いです。
▲いずれも市野々 1995-8
 
酷暑の中を一日中撮り回ったせいか、グッタリしながら薄暮の田原町で下車。明日の福井鉄道を思い描きながら、大通りをのらりくらりと歩いて行きました。
▲市野々-永平寺 1995-8

2018年12月4日

北陸鉄道浅野川線 その3・内灘にて

▲北陸鉄道モハ5101 三ツ屋 1995-8 

さて、続いて三ツ屋駅の反対側へ。
「引き」がなく殺風景ですが、住宅が建て込んでいる沿線ではここで妥協するしかありません。

管理人的には最も好きなモハ3551は、3000系列の仲間で最も遅く誕生したグループ。近代的なスタイルでしたが、井の頭線からの8000系転入によって他の仲間と共に淘汰の対象になりました。
こちらも3000系列のモハ3011。同じ仲間でも新製時期によって随分と顔が違います。
スノープラウが厳しいモハ3563は、元河南線モハ1800形で最後まで残った1両でした。温泉電軌時代に火災復旧車デハ20形として誕生、その後デハ26→モハ1803→モハ1831→モハ3563と変転し、終焉の地が当線でした。
▲いずれも三ツ屋-大河端 1995-8
 
3連が行ってしまうと、次に向かったのは粟ヶ崎駅。
元有人駅ですが無人化久しいようで、小さい駅舎は荒れ果てていました。駅のすぐ横、撮影ポイントになっている大野川橋梁で狙います。
粟ヶ崎に進入するクハ1001。
▲いずれも蚊爪-粟ヶ崎 1995-8
 
隣の内灘までは大汗を掻きながら歩いていくことにしました。
▲いずれも粟ヶ崎-内灘 1995-8

内灘で一休み。
車庫にはモハ3501らがいますが、何しろ狭い車庫で引きが取れません。3011の発車シーンを捕えて終了、次の目的地・京福永平寺線へ急ぎます。
▲いずれも内灘 1995-8
 
その昔、粟ヶ崎海岸まで線路が伸びていた頃の内灘駅は広く、砂浜のようなバラストの上を2軸車凸凹編成が走り去る姿をしばし妄想しました。
▲浅野川線憧憬の時代
 
▲三ツ屋 1995-8