2024年2月25日

鋼体化車のワンダーランド・上信電鉄 その2

▲上信電鉄クハニ13と観光バス 高崎 1958-8 
 
上信鋼体化車シリーズ、デハ20形を続けます。
デハ22・23のルーツは電化開業時に登場した自社発注車で、更新時期が1960年と最も新しいグループ。デハ20・21からは一変、シル・ヘッダーなしの近代的な車体に変わっています。両運が幸いし、81年の戦列離脱後もデハ11の後継として高崎の入換用に残りました。

こちらはデハ22の前身・デハニ4。
鋼体化直前の頃で、二重屋根にジーメンスの巨大パンタとオリジナルに近い姿です。
車体は日車製、台車はブリル27MCB-Ⅱながら、モーターや制御機器はジーメンス製で占められており、ご存知デキ1もマンとジーメンス。電化工事に採用した機械類がドイツ製品だった経緯によると言われていますが、アメリカやイギリス製が圧倒的に多かったこの時代としては特異なケースでした。
▲高崎 1958-8

鋼体化後の姿。
現場の使い勝手が良かったようで、250・6000形が登場するまではデハ23と共に出動機会が最も多かった車両でした。
▲高崎 1980-11

1981年春に構内入換用となり、淡いピンク+白帯+前面社紋入となったデハ22。
背後の看板「カッパピア」は上信の子会社が運営していた遊園地で、流れるプールが売りでしたが2003年に閉園されています。
▲高崎 1981-2

前歴も更新時期もデハ22と同じながら、こちらは片運転台のデハ23。
▲高崎 1975-10

僚車デハ22が構内入換え用になった後も、デハ23は区間列車用として最晩年を過ごしていました。



デハ23車内には謎のテレビ画面。
ブラウン管はなく前面だけを剥がしてくっ付けたようで、一体どういう使い方をしていたのでしょうか。
▲いずれも高崎 1981-9

デハニ30形も元自社発注車で、2両在籍。
デハニ30の前身は付随車・サハニ1で、戦後台枠だけを再利用し、これに国鉄から調達した中古品のモーター・台車に新造車体を組み合わせて誕生しました。晩年はデハ20を中間に組み込んだ3連が多く見られました。
▲南高崎-根小屋 1977-8

▲高崎 1977-8

デハニ30の廃車は1981年4月とされていますが、その半年前からパンタが外され構内の片隅に据え置かれたままになっていました。




▲いずれも高崎 1980-11

デハニ30の僚車ながら、こちらは非貫通のデハニ31。
鋼体化車仲間が1981年前後に相次いで撤退する中、予備車として91年まで在籍しました。こちらは最晩年の頃、クハ21を従えて朝ラッシュ運用に就く姿です。



▲馬庭-吉井 1980-11 

デハニ31の前身は自社発注のデハニ2。
このカットが記録されて間もなく鋼体化されます。

▲高崎 1958-8 

鋼体化間もない頃の姿。
まだジーメンスの巨大パンタを載せていますが、台車・モーターは国鉄中古品(TR14形・MT4形)に換装されています。
▲下仁田 1960-10

パンタも交換され、お馴染みの姿になりました。
▲高崎 1962-3

予備車として余生を過ごすデハニ31。
区間運転はデハ23が、構内入換え任務はデハ22が担っていましたから、ほとんど出番はありませんでした。
▲高崎 1981-9

小口の貨物輸送が華やかだった時代、地方私鉄には各社オリジナルの貨車が多数棲息しており、国鉄からの直通列車に混じって凸凹編成を組んだり、旅客車の尻につながれてミキストで走る姿が日常的に見られました。

ご他聞に漏れず、上信線にも「ワ」「ト」「テ」といった自社製品が在籍。
こちらは上のデハニ31と同じフィルムにあったワフですが、隣の国鉄型に比べると如何に可愛らしいサイズだったかがわかります。

・・・ただでさえ不人気&マニアックな記事なのに、しつこくまだ続けます。



▲高崎 1960-10

2024年2月18日

鋼体化車のワンダーランド・上信電鉄 その1


▲上信電鉄デハ21・デハニ2 高崎 1958-8

最近でこそ「ド派手な広告電車」「JR107系の牙城」といったイメージの上信電鉄、しかし1970年代までは無骨な鋼体化車が闊歩する魅力的な路線でした。

前歴は大別して電化開業時からの自社発注車に加え、東武デハ1形、国鉄車(買収国電含む)の三態という陣容で、いずれも大正時代の木造車。1951年~60年に新造車体に載せ替えられていきますが、種車と更新時期によって形態は様々で更に荷物合造車もあったりと、およそ同じ会社らしからぬバラエティさでした。

・・・という訳で、相変わらず人気のない上信線企画ながら、今回は手元の古い記録から鉄道少年時代の駄作スナップ、鋼体化車最晩年のモノクロ画像まで総動員してお送りしてみます。
▲デハ10+クハ22 南高崎-根小屋 1980-11

まずはこちら、デハ10形。
前身は東武名物5枚窓・デハ1形と信濃鉄道買収車で、1952-53年と戦後いち早く鋼体化されたグループです。

デハ11は、戦後間もなく入線した東武デハ3を1953年に鋼体化。
70年代始めから高崎の構内入換用となりますが、その後もロケに使われたり試験塗装の実験台にされたりで80年まで生き長らえます。下のカットは赤とクリームのツートン時代で、まだ第一線で活躍中でした。

▲高崎 1962-3 

こちらは電機代用で高崎の入換えに従事していた頃。
▲高崎 1975-7 

見てビックリの試験塗装。
この後戻されたのか、このまま廃車になったのか未だに分かりません。


▲高崎 1977-1

次はデハ10です。
前歴はデハ11と同じ東武デハ1形ながら、1962年に西武所沢工場で車体延長(16m→19m)の改造を受け、同形式とは思えません。最も大型であったため、晩年まで朝ラッシュ時に重宝していました。

▲高崎 1976-2


▲南高崎-根小屋 1980-11 

信濃鉄道の木造車・デハユニ2を出自とするデハ12。
買収国電を経てお輿入れするも、1970年とデハの中では最も早く引退しています。
▲高崎 1962-3

次はデハ20形です。
デハ20は1951年、戦災に遭った木造省電(デハ33500形)を叩き直した鋼体化車第1号。
といっても使われたのは台車と台枠だけで、鉄道省→鶴見臨港鉄道へ払下げ→鉄道省が再買収といった流転の末にやって来ました。

新製車体ながら戦前のようなゴツイ形状で、前照灯のツララ切り・裾の切込みなど厳めしい様相です。3両編成の中間に入ることが多く、この日は運良く区間運転の2連で前に出てきました。



▲いずれも高崎 1980-11

デハ20に遅れること7年、かなり洗練されたスタイルで登場したデハ21。こちらの前身は1925年製の自社発注車・デハニ1でした。

▲高崎 1962-3

▲高崎 1980-11 

デハ21は最晩年に高崎構内の入換え任務に従事していたようで、訪問する度に1両だけで違う位置に停まっていました。これまで見られなかった高崎方の前面が常時顔を出していましたが、1981年4月に引退。後任は後輩格のデハ22になりました。



▲いずれも高崎 上:1980-11 下:1981-2

当時の最新鋭・デハ200形に混じって第一線で活躍してきた更新車も、1976年に1000系が登場すると運用が減り始め、更に81年に250系・6000系が戦列に加わると淘汰に拍車がかかるようになります。

・・・次回に続きます。
▲高崎 1974-12

2024年2月9日

夏風吹く車庫で 1976年

 ▲上田交通ED251ほか 上田原 1976-7

1976年の夏休みは、上野発23:58の直江津行「妙高5号」で長野へ。
暖めておいた「一筆書き大回り旅」プラン実行の時が来ました。先ずは長電や上田交通、松本電鉄などを見学後、再び夜行急行「きそ5号」で名古屋へ向かい、豊橋機関区や豊鉄を一覗きし、最後は新幹線経由で舞い戻るという算段でした。

薄明の長野を下車、始発列車が動き出すまでどう過ごしたのか記憶にありませんが、恐らく窓口氏にねだって入場券を所望したりDJスタンプを押したり、旅行センター前に置かれていたチラシの類を漁ったりしていたのでしょう。

さて須坂に着くや、眩いばかりの夏の陽が顔を出してきました。
当時の長電は赤ガエルの侵攻前夜で、開業以来の強者らが最後のご奉公をしていました。

▲いずれも須坂 1976-7

須坂から取って返した後は、この日のもう一つの目的地・上田へ。
信越線にはまだ旧型国電が走り、ホームには荷物台車やら売店やらも並び、小ざっぱりした今と違って賑やかでした。
▲上田 1976-7

途中から幅が急に半分になる木造跨線橋を渡り終えると、別所線の線路が伸びていました。先ずは構内外れにいたサハ2両から見て回ります。

サハ24の出自は飯山鉄道(→国鉄飯山線)のキハ。全国に同系が棲息していた日車形キハで、上田には延べ5両が在籍。サハ24は丸子線・真田傍陽線なき後まで残った、最後の1両でした。










元神中のクハ252は昇圧の日までモハとペアを組んで活躍しました。
▲いずれも上田 1976-7

さて、次はサハ62(元東急サハ3350)を従えた丸窓に乗って上田原へ移動です。
▲いずれも上田 1976-7

上田原に休むモハ5252。
リベットだらけの厳つい車体にトラス棒、お椀形ベンチレータ、塗色そして丸窓・・・どれを取っても申し分なく、管理人の好きなデンシャ不動の第1位です。3両の仲間は上田温泉電軌時代から他線に転じることなく、この地で56年の生涯を全うしました。




信濃鉄道の木造車に小田急の車体を載せたモハ5370形。丸窓と共に、750V最後の日まで走り続けました。

▲いずれも上田原 1976-7

旧宇部電気鉄道のED251は定位置で昼寝中でした。
この頃はまだ貨物列車も営業していたハズですが、不定期だったのでしょうか。


東急から借り入れ中の戦災復旧車・クハ3661。
鋼体化車のデハ3310とコンビで1975年にやって来ました。この3年後に正式な別所線メンバーになりました。

旧信濃鉄道クハ261の車体は工作室として余生を過ごしていました。
丸子線や真田傍陽線の廃線後、予備車としてやって来たサハ22や61、モハ3121は再び走ることはありませんでした。

▲いずれも上田原 1976-7

こちらは10年後の電車区。
ほとんど変わらぬ姿のまま、この半月後に終焉を迎えます。



▲いずれも上田原 上:1986-9 下:1984-7

上田原の待合室に貼られていた、手作り感100%の壁新聞。
丸窓電車はこれから30年目を迎えることなく引退してしまいました。


▲上田原 1976-7

上田原の構内は何から何まで「凄まじい」としか言いようがありませんでした。
詰所にホームを無理やりくっ付けたような、こんな佇まいは他に例がないでしょう。反対側の別所温泉方面ホームは、車庫と完全に一体化していました。
▲いずれも上田原 1984-7

再び長野に戻り、旅を続けます。
この後は松本電鉄の新村車庫を見学したり大糸線をスナップしたりして、暗くなるまであちこち撮り回りました。名古屋行「きそ5号」が出る23時過ぎまでどうやって時間を潰したのか記憶が抜けていますが、街歩きなどという小洒落た真似をするお年頃でもないですから、発車までじっと待合室にいたのでしょう。

その後も予定通りに事を運び、大回り一筆書き旅は無事に終了。
しかしこの季節、風呂にも入らず着替えもせず夜行列車2連泊を強行したお蔭か、全身汗まみれ泥だらけになりました。シャツがちょっと変色していた記憶がありますが、そんな風体のまま何食わぬ顔をして新幹線で帰ったのですから、もう呆れるほかありません。



▲長野 1976-7

▲翌日は北恵那鉄道を一覗き 中津町 1976-7

さてこの頃、相次ぐストでイメージダウンと収益悪化のスパイラルに陥っていた国鉄は、この秋に50%もの運賃値上げを実施。これが国鉄解体へのプロローグ第1章となりました。

30円だった最低運賃は一気に倍になりました。
窓口で「入場券大人3枚と子ども1枚下さい(合計100円)」が旅先での定番だった管理人でしたが、これを機に入場券集めを中止、撮影旅行の頻度も半分になりました。なけなしの小遣いから旅費を捻出する鉄道少年への影響も、また甚大でした。

▲上田原 1976-7