2023年3月26日

切妻への不思議な憧憬

▲鉄道少年時代の収集物から 1970年代

今の中高年世代にとって寝台特急といえば何を置いても20系、特に代表格であるナハネフ22とカニ21が思い浮かぶのではないでしょうか。

一方で、Rの利いた優雅な彼らに比べ、切妻形のナハネフ21と23の人気は今一つ。
しかし、管理人にとってはカメラを持ち始めるずっと前、鉄道図鑑を食い入るように眺めていた頃から憧れを募らせる存在でした。

夜を徹して走り続けてきた長大編成列車は、ターミナル駅で一息つくや静かに分割される。初めて全貌を現したナハネフ21・23は、相方を駅に残し、殿の役目を果たしながら更に遠くに向けて走り出す・・・そうした情景を想像し、旅情というか旅の醍醐味のようなものを感じていたのかも知れません。
▲1975.3改正で「あさかぜ」「瀬戸」以外は引退 東京 1975-1

東京口で日常的にナハネフ21・23が前面に出ることは終にありませんでしたが、上野口では1975年3月のダイヤ改正あたりから潮目が変わってきます。

こちらは早暁に上ってくる「ゆうづる1号」。
75.3改正から僅か半年余りながら、ナハフ改造のナハネフ21が殿を務めました。

こうなると是が非でもその姿が見たくなり、父親に頼み込んで東北線小山までクルマで送らせ、夜行急行「いわて3号」で上野に馳せ参じた末に捉えたのがこのカットでした。
▲上野 1975-10 

東京駅では遠い存在だった彼らでしたが、どういう運用の都合か一度だけ会う機会がありました。それがこちら、75.3ダイヤ大改正が迫る頃の上り「富士」。

残念ながらホーム先端ぎりぎりに停まってしまいこれが限界、後ろ髪を引かれる思いで次の目的地に向かった記憶が鮮明に残っています。

今だったら田町あたりで回送列車を捕まえて、なお且つ夕刻の下り列車まで粘るところ。
しかし同行の友人らの手前もあったし、短時間で色々な路線を見たい鉄道少年時代でしたから、早々と諦めてしまったのでしょう。
▲いずれも東京 1975-1

20系は一線から退いた後も急行や臨時列車に活路を見出し、長く命脈を保ちます。

記念すべき20系デビュー列車となった「あさかぜ」では、1978年始めに定期列車から撤退するも季節列車に度々駆り出され、90年までその姿を見ることができました。


▲東京 1979-5

大阪発の北陸特急「つるぎ」は1976年まで20系で運行。末期はナハネフ21が充当されることが多くなりました。

▲向日町運転所 1975-1

20系最後の定期特急は「あけぼの」。
ナハネフ22は一足先に姿を消してしまい、末期はナハネフ23が掉尾を飾ります。
大画面ガラスやRを多用した22はやはりメンテナンスが大変だったのか、この頃は滅多に見かけなくなりました。

特急から外れた後も急行「新星」「天の川」はそのまま残り、1982年の東北・上越新幹線開業まで延命。そしてこれが上野口最後の20系定期列車となりました。
▲尾久-赤羽 1980-9

▲上野 1980-5

定期列車がなくなった後も、しぶとく盆暮れの臨時列車で生き残りました。
しかし帯が消され、B寝台ばかりになった彼らにはもはや栄華を誇った時代の面影はなく、疲労感ばかりが漂っているように見えました。

長く憧憬の対象だったナハネフ21と23。
図らずも終焉が近づいた頃になって、見ようと思えば毎日でも、しかし満身創痍の状態でこれが叶うことになるとは、少し皮肉にも思えました。
▲いずれも尾久客貨車区 1992-8

2023年3月19日

春雨の鶴見線



▲鶴見線クモハ12052 浅野 1992-4

1979年冬、鶴見線から72・73系が消えてなお残った2両のクモハ12。
これは周知のとおり、線形やホームの事情から大川支線に20m車が入線できず、彼らが引き続き1.0kmの運用をこなしていた訳ですが、その後本線の閑散時間帯用に白羽の矢が立つや、鶴見や海芝浦まで顔を出すようになりました。

この頃、JRも大手民鉄も思いつきでフラリと出掛けられる路線はもはや少なかった時代。
しかしこれのお蔭で選択肢が増え、1996年の引退まで結構な頻度で出向くことになりました。

▲武蔵白石 1992-4

生憎と雨空ながら、この日はまず浅野で下車。
本日の単行当番はリベットゴツゴツが残るクモハ12052、これはラッキーです。


▲いずれも浅野 1992-4

新芝浦に到着する鶴見行を待ち構えます。
遠くには何やら「ソ」のような物体が見えますが、立入禁止区域ゆえ近付くことはできませんでした。


▲いずれも新芝浦 1992-4

本線での活躍前から馴染みだった大川。
何度この位置に立ったか分かりませんが、いつ動くとも知れぬホキが停まっているのは毎度変わりませんでした。




▲いずれも大川 1992-4

大川で折り返しを待ちます。
現在ここに発着するのは平日9本、土休日3本と北海道のローカル線並みになってしまいました。


▲いずれも大川 1992-4

大川を発車するのを捉えて、雨の撮影行を締めることにしました。








▲いずれも大川 1992-4

さてこのクモハ12052、引退後は東京総合車両センター(旧大井工場)で長く保管されて来ましたが、昨年夏に鉄道150周年を記念して外観がレストアされ、一般公開もされました。まあ、公開といっても流行りの「お高い」有料撮影会ですが。

これに限らず、最近は参加費ウン万円という撮影会がやたらと目立ちます。
どんなに高額でも必ず申し込む好事家はいますから、JRもめっぽう強気になっているのでしょうが、それにしても商魂逞しい。一方で無料で入れるイベントと言えば、ファミリー層向けの、門前に変なゆるキャラが立っているようなヤツばかりで、これでは参加する気にもなりません。
▲大川 1992-4

2023年3月12日

本日のインスタ投稿から(11)

▲南部縦貫鉄道キハ102 坪-坪川 1997-2

営業休止が決まった1997年。
何度も足を運んだ南部縦貫線ですが、真冬の訪問は初めてでした。

何せ1日たったの5往復、列車移動だと気が遠くなるような待ち時間だし、並行するバスも少ない。しかし来たからには爪先から脳天に突き抜けるあの律動も堪能しようと、あの手この手で回を重ねてきました。

この日は青森勤務だったchitetsuさんの四駆に便乗、至極お気楽な撮影行です。
現地集合した鉄研メンバーと徒党を組んであちこち徘徊しながら、雪晴れの一日を楽しみました。







▲上:後平-坪 中:坪川 下:七戸 いずれも1997-2

野辺地行の最終列車。
これを見送ってこの日は終了、十和田市の安ホテルで集団合宿です。

翌日は打って変わった真冬らしい鉛空の下、再び沿線を撮り回りました。ここら辺の経過は、後日記事にまとめてみたいと思います。

▲七戸 1997-2

▲野辺地-西千曳 1997-2

2023年3月5日

イモムシ君と梅雨空トラム その3


 ▲名古屋鉄道モ601 競輪場前-北一色 1995-6

モ600形は美濃町線の新岐阜乗入れを企図し、新製車体に中古部品を合体させて誕生。
狭小な車両限界に対応した車体に屋根上にもぎゅうぎゅうに積まれた機器類、花巻電鉄デハ1形を想起させる3枚窓の顔と、超個性的なデンシャでした。本家・花巻の1,600mmには及ばないものの、2,236mmという細面は「馬面電車」と呼ぶに相応しいでしょう。

さて相変わらずの雨空の下、モ600を追い掛けます。
上芥見駅の佇まいがすっかり気に入ってしまい、結局2時間も粘りました。かつては砂塵を巻き上げながら、ここをモ510形がゴロゴロと走っていたのでしょう。
▲上芥見 1995-6


▲上芥見-白金 1995-6

▲下芥見-上芥見 1995-6

▲上芥見-白金 1995-6

とうとう空が泣き出してしまい、取り合えず場所を変えることにしました。美濃方面に行ってみたい気もしますが、ここは新岐阜方面に引き返します。
▲上芥見 1995-6

さて、きつい段差を危なっかしく降りたのは北一色。途中、車窓から見えた古い家並みが気になっていた電停でした。
▲北一色 1995-6

古い商店を横目に見ながら、連なってやって来ました。
モ600と道産子が続行でやって来る姿は楽しいものです。

昔はこの辺りも賑やかな商店街だったのでしょうが、大方の店はシャッターが降りていました。道路は上芥見より広いものの、電車とクルマがやっとすれ違える程度の幅しかありません。

▲いずれも競輪場前-北一色 1995-6

振り返った風景がこちら。
おばちゃんの写っている辺りが緑色に塗られた乗降スペースで、ホームはありません。
これは岐阜市内線も同じで、およそバリアフリーとは無縁。クルマが渋滞などしていたら冷汗ものですが、長年続いた当たり前の風景だったのでしょう。


▲いずれも北一色 1995-6

さてこれでお仕舞い・・・と思いきや、帰途の車窓から見えたデキらに引き止められ、急遽須ヶ口で下車、隣接する新川工場(現:犬山検査場新川検車支区)へ行ってみます。駆け寄ると、入口近くに2両、奥にもう1両のデキがパンタを上げて停まっていました。

▲新川工場 1995-6

デキ300形は三河鉄道が1925年に新製した国産機。
デキ305は93年に更新工事を受けて軽快な姿に変わりました。総勢6両のうち、現在も303が舞木検査場の入換え用に残ります。

未更新のままのデキ370形は、愛電が1925年に導入したWHコピー機。
各線に分散配置されていた9両のうち、デキ378は瀬戸線の379と共に長命を保ちましたが、いずれも現在は廃車されています。

東芝戦時設計のデキ600形もいました。
デキ603は海南島へ渡る筈だったのを譲り受けたもので、リニューアルされて2015年まで残りました。

▲いずれも新川工場 1995-6

うーむな空の下、1.5日ながら頗る内容の濃い撮影行となり、満足顔で帰途に就きました。
しかしこの翌年に800系が相次いで引退、次いで2001年には3400系も定期運用から離脱。動態保存だから当面安泰と高を括っていましたが、何とも呆気なく幕を閉じてしまいました。

一方の美濃町線。
こちらも、1999年に新関-美濃間が廃止された後も新車(800形)がデビューし先ずは一安心・・・と胸を撫で下ろしたのも束の間、600V線区廃線の大ナタを振られてしまい、2005年に命脈が尽きました。


▲いずれも新鵜沼-犬山遊園 1995-6