2019年12月24日

合戦場近く

▲東武鉄道1720系「けごん」 家中-合戦場 1990-9
 
1973年秋は東武各駅にとって一大転機でした。
かつては妻沼線の中間駅・大幡を除く全駅が有人駅でしたが、この時は一気に18駅(異説あり)が無人化。現在ならば各駅を片っ端から回って切符集めに狂奔するところですが、情報が全くない上に小学生の身ではどうにもできませんでした。
▲合戦場駅舎(Wikiから転載)
 
▲日光線の78は記録できず仕舞いでした いずれも栃木 1978-1
 
日光線の小駅もこの時のターゲットで、8駅が無人化されています。
日光線には家中、合戦場、楡木、明神・・・と魅力的な駅名が並び、一体どんな駅なのか-実際は何の変哲もない場所ですが-と子どもながらに妄想を膨らませていました。
▲こちらは後日入手です

73・78系が引退してからはすっかり縁遠くなった東武線、しかしこの時は野暮用の道すがら初めて合戦場駅近くに立ってみました。
周辺は起伏の全くない風景で「一面の田園を行く電車」といった画しかできませんが、数少ないDRCの記録になりました。
▲いずれも家中-合戦場 1990-9

2019年12月17日

「グリーン帯」のこと

▲東海道本線サロ113形 品川 1980-4
 
四つ葉マークと共に目映く写った淡緑色の帯。
急行グリーン車の象徴だった帯の廃止が決まったのは1978年のことでした。

少しでも安く済せようと貧乏旅を繰り返していた頃、現在と違い割引料金もなく、乗ることなど論外でまさに高嶺の花。特に長距離夜行のそれは特急よりも数段眩しく見え、一体どんな人種が乗っているのかと水族館の水槽のように窓に張り付いて眺めたものでした。

・・・という訳で、本日は「帯の消滅率50%」の頃の記録からお送りします。
▲急行「越前」のスロ62 日暮里 1980-5
 
まずはこちら、旧型客車の中で一際輝いて見えたスロ62。
上野から次々に発車していた夜行急行「八甲田」「津軽」「越前」「鳥海」「能登」「十和田」とおもな列車には必ず連結されていました。
▲いずれも上野 1978-9

▲上野 1980-5
 
同じ夜行急行でもこちらはDCの「出羽」。
いくらグリーンとは言え、キハ58での長距離は難儀だったのではないでしょうか。
▲上野 1978-9

▲日暮里 1980-4
 
こちらは常磐線のフリクエント急行「ときわ」。
▲いずれも上野 1980-4
 
山岳急行の象徴だった急行「アルプス」にも連結されています。
デビュー当初は非冷房車もあって悪名高かった房総急行にもありました。
▲いずれも新宿 1980-5
 
そして現在まで続く横須賀線のサロ。
「一つ奮発して」と一大決心してグリーン券を買ったも遠い昔、現在は割引料金・カードで気軽に、ですから有難味は随分と薄れました。
▲いずれも品川 1980-5

2019年12月7日

「湯タンポ」と「青ガエル」

▲東京急行電鉄デハ5042 旗の台 1980-4

1954年、鮮烈なデビューを果たした東急5000系。
超軽量のモノコック車体に日本初の直角カルダン駆動を始めとした最新鋭の機器を装備・・・とあらゆる面で先駆的でした。ステンレスカーに席巻されて東横線からは1980年春に撤退しますが、その後も主戦場を大井町線や目蒲線に移し、86年まで命脈を保ちました。
▲いずれも旗の台 1980-4
▲大井町 1980-4

軽量車体がウリの5000系は地方でも重宝し、引退後も長野三私鉄を始め福島や熊本などでも長く活躍、転出車は延べ60両超の大所帯となりました。
▲信濃川田 1992-11

▲須坂 1980-9
▲岳南富士岡 1987-10

熊本電鉄では稼働状態で保管されています。
▲北熊本 2015-10

一方こちらは日本初のステンレスカー、湯タンポこと5200系。
この後次々に登場するステンレスカーの嚆矢となりました。
▲旗の台 1980-4

系列会社だからでしょうか、上田交通には5001と5201が揃って入線しました。
5200形の方は特徴的なコルゲートが減り、少し大人しい印象を受けます。
昇圧後の別所線は彼らの独断場となり、その後も7200系、現在の1000系と東急OBが占めていきます。
▲いずれも下之郷 1986-9

あらゆる面で先進的だった5000系でしたが、Rが多く鉄道車両向きでない、構造上大きな改造がしにくい、腐食しやすい・・・などなどモノコックの泣き所が仇となり、その後のデンシャに普及することはありませんでした。

記念碑的な車両となった5001号は、別所線から東急に里帰りはしたものの、現在うーむな展示物にされているのはご存知のとおりです。
▲大井町 1980-4