2023年9月28日

1980年冬 堀切あたり

▲東武鉄道78系 玉ノ井-堀切 1980-12

1980年春に田舎高校を卒業し上京してから半年が過ぎ、慣れない四畳半下宿生活も板に付いてきました。この年入部した鉄道研究会メンバーとも徒党を組んであちこち出掛けるようになり、お蔭でそれまで疎かにしていた都内大手私鉄も開眼。

80年も押し詰まった12月、鉄研仲間の一人が「堀切の模型屋に行く」というので、何名かでぞろぞろとついて行くことになりました。みんなヒマ人だなあと思われるでしょうが、駄話をしながら列車で移動するだけで楽しいお年頃でしたから、無理もありません。

▲堀切 1980-12

友人の用件は無事に済み、このまま取って返すのも勿体なく駅前の歩道橋から構えることにしました。今考えると、この時何で重たいカメラを持って行ったのか不思議ではあります。





日光線の快速急行。
閑散期だからでしょうか、たった2連の可愛らしい編成でした。





亀戸線の回送列車もやって来ます。
冬の短い陽はすぐに暮れ、シャッターも覚束なくなってきました。

▲いずれも玉ノ井-堀切 1980-12

薄暮の駅入口。
立看板の「分福ヘルスセンター入場券付割引切符」の告知が時代を感じさせます。

「分福・・・」は館林の茂林寺近くにあった健康ランドで、管理人も幼少時代に家族総出で出かけた記憶が微かに残っています。
お決まりの大浴場に加えて、ロビーにマッサージ椅子やクレーンゲーム、エアホッケーが鎮座している程度で、何か面白かったのか分かりませんが、田舎で非日常を味わえる数少ない施設だったのでしょう。
▲いずれも堀切 1980-12

すっかり暗くなった堀切をお暇し、鉄研メンバーと別れた後はこちらへ。
最後まで残った青電こと2000形が引退する頃で、10年以上に及んだ立体交差化工事もまだ道半ばでした。




▲いずれも青砥 1980-12

都営地下鉄乗り入れ車は5000形の全盛時代。
この時掲げていた開通20周年のマークは何種類かあったようで、もっと追い駆けておくべきでした。

いずれも青砥 1980-12

「ちょっと出掛けたついでに」押さえておきたい対象がいくらでも転がっていた時代。
それ故「いつでも撮れるから」と慢心した挙句、記録し損なったデンシャや駅風景も数知れず・・・なのですが。


▲上:青砥 下:玉ノ井-堀切 いずれも1980-12

2023年9月16日

浜川崎支線のチョコレート電車


 ▲南武線クハ16211ほか 尻手-八丁畷 1980-11

南武線・尻手駅の片隅からひっそりと発着するブドウ色の電車。
鉄道少年時代、唯一の情報源だった鉄道誌に紹介されることもなく、1975年夏の首都圏早回りで初めて対面、しかし見たいものが山ほどあった当時は深入りすることもありませんでした。

結局こんな感じのスナップ2枚で終了、マトモに追い掛けるようになったのは田舎高校を卒業して上京した80年春。既に引退の足音が聞こえ始めた頃でした。


▲尻手 1975-7



▲八丁畷 1980-11

八丁畷のホーム端から。
眩いばかりの朝陽を浴びてやって来る彼らを捉えます。鋼製国電の祖・モハ30改造のクハ16形は厳つい風体が魅力的で、好きな電車の一つです。クハ16215は仲間の16211より正面のリベットが少なく大人しい顔立ちでした。




南武線といえば貨物列車も外せません。
八丁畷のホームは京急線の跨線橋兼用ですから、通行人にチラチラ一瞥されながらでの撮影で、ちょっと恥ずかしかったのを憶えています。こうした構造は稀有かも知れませんが、2路線がちょうど垂直交差しているお蔭でしょう。


少し待つと、隣の東海道貨物線にEF58がやって来ます。

▲いずれも尻手-八丁畷 1980-11

川崎新町駅に到着するクハ16211。


▲いずれも川崎新町 1980-11

夕暮れ近い川崎新町を行く。
沿線の宅地化で、この辺りに新駅「小田栄」ができましたが、ちっとも知りませんでした。それだけ縁遠くなっていたのですね。




▲いずれも川崎新町-浜川崎 上・中:1980-5 下:1980-11

電車と共に、EF15や58、65などバラエティに富んだ列車が見られるのも楽しみの一つ。
何度かここに立つうちに通過時刻や機関車の所属を覚えてしまい、17m車引退後も通うことになりました。



▲いずれも川崎新町-浜川崎 上:1980-5 中・下:1980-11

ここから少し歩けばあっという間に浜川崎に到着です。

▲いずれも浜川崎 上:1980-11 下:1980-5
 
浜川崎で昼寝中のED1614。
南武線用としては最晩年の頃でした。

▲いずれも浜川崎 1980-5

17m車はこの年の冬、何のイベントもなくなくひっそりと姿を消していきました。
最後まで残ったクモハ11・クハ16コンビですから少し話題になっても良さそうなもの、と当時は思いましたが、引退イベントのお祭り騒乱よりよほど最期らしい最期でした。


▲川崎新町-浜川崎 1980-11

2023年9月6日

春遠い嵯峨野


▲京福電鉄モボ102 三条口 1971-2

手元の古い記録から、前回の叡電に続きポール時代の嵐電をアップしてみます。
時は1971年冬、嵐電スタイルともいうべきモボ101・111・121形が全車とも元気な姿で走っていました。

1975年のZパンタ化に併せ、101形6両がお馴染みの全金車体に載せ替えられて一新。
80年代に入ると他のメンバーにも波及し、新形式に機器を譲り徐々に戦線離脱していきました。



▲1枚目:嵯峨駅前 他:撮影場所不明 1971-2

絶滅した車内風景。
老若男女一様に頭を垂れ、手元の小さな機械に没入するようになるのは、この30年後くらいからでしょうか。青筋を立てながら情報過多に支配され、車窓から四季の変化を感じ取ることもなくなりました。みんな何がそんなに忙しいのでしょう。


鹿王院駅風景。
京都の厳しい冬を象徴するかのように、乗客らも厚く着込んでいます。


▲いずれも鹿王院 1971-2

これは太秦駅でしょうか。
他のカットも含め、撮影場所がお分かりになる方がいましたらご教示を。
▲三条口 1971-2

三条口(現:西大路三条)。
冒頭の一枚と共に、今回最も「刺さった」カットです。
▲いずれも三条口 1971-2

モボ126の車内。
凛々しかった職員の詰襟制服姿も、1980年代から平凡なスーツに変わりました。




更新されつつ長命を保ってきたモボ101形も、いよいよ来年度にデビューする「KYOTRAM」と交代する形で引退することが決まりました。

ネットで完成イメージを瞥見すると、最近のデンシャにありがちなうーむなデザイン。しかし中小私鉄の完全な新車ですから、待ち遠しくはあります。
▲鹿王院 1971-2