2020年8月29日

花嵐と雷鳴と その2


▲津軽鉄道オハ463ほか 津軽飯詰-毘沙門 1992-5

さて、見る間に空は暗くなってきましが、せっかくの満開ですからまだ粘ります。
ISO64のコダクロームでは露出を稼げなくなってしまい、画質や粒状性低下には目を瞑りISO200に交代。せっかくの桜ですが、フィルム時代はこんな妥協もしばしばでした。
キハ10に代わり、JRからやって来たばかりのキハ22もやって来ます。

駅の脇には2代目ストーブ客車・オハ31が保存されています。

▲いずれも芦野公園 1992-5

ド定番アングルばかりながら充分に満開を堪能し、気が付くと夕方近くになってきました。そろそろ花見客も引き揚げる頃です。

今夜の「はくつる」で帰らなければならない身、半端な時間をどうしようかと思いましたが、これまた定番の金木の築堤に向かいます。

しかしいよいよ空は怪しく・・・と思いきや突然の雷鳴。
前日の南部縦貫といい、この時節は雷雨が多いのでしょうか。遮蔽物が何一つない田圃の真ん中での雷は怖いですが、立ち込める積乱雲は逆に絵になりました。
▲いずれも嘉瀬-金木 1992-5

突然の雷雨は直ぐに過ぎ去り、遠い雲間から日差しが見えて来ました。
▲いずれも金木 1992-5

薄暗くなった金木から引き揚げることにします。
花見客もとっくに帰ってしまったのでしょう、帰りの列車はがら空きでした。

▲いずれも金木 1992-5

「はくつる」発車までの楽しい待ち時間は、次々に到着する列車をスナップです。
これ以降は専ら新幹線か空路になってしまい、この駅には随分とご無沙汰しています。現在はどう変貌しているでしょうか。
▲いずれも青森 1992-5

2020年8月23日

花嵐と雷鳴と その1

▲津軽鉄道キハ24023 芦野公園 1992-5

「じゅうかん」で丸一日を過ごした後は(→ その1 / その2)弘前駅前の安宿に投宿、続いて4年振りの津軽へ向かいます。
前日は空振りに終わった桜でしたが、芦野公園は満開だろうと当て込んでのことでした。

先ずは津軽飯詰で初めての下車。
久保田久雄さんの作になる岩木山の「水鏡」を見て以来、同じ位置に立ってみたいとの思惑からでした。

しかし、晴れてはいるものの花嵐でしょうか物凄い強風。
岩木山は頭どころか全く姿を見せず、田圃もまだ更田でした。これでは水鏡は望むべくもありませんが、気を取り直して空を強調してみます。
▲いずれも津軽飯詰-毘沙門 1992-5

岩木山も水田もなしでは殺風景ですが、続いてやって来るメインの客レも同じ場所で。
観桜シーズンだからでしょうか、休日でも2往復が設定されていました。
少し変わったアングルを狙って起伏を強調です。

▲いずれも津軽飯詰-毘沙門 1992-5

さて本日の主目的、桜鉄です。
流石はシーズン真っ只中でどの列車も満杯、芦野公園に着くやどやどやと降りてきました。地方の鄙びた桜の名所・・・という勝手な先入観でしたが、この人出に其処彼処に立つ露店や幟と、ちょっと面食らってしまいました。
▲いずれも芦野公園 1992-5

桜には何度となく肘鉄を食らい、満開のタイミングに合ったのは数えるほど。
その雪辱もあって、これでもかと粘りコマ稼ぎばかりしてしまいました。

▲いずれも金木-芦野公園 1992-5

しかし皐月の空模様は安定せず、早くも雲が立ち込めてきました。
・・・次回に続きます。

▲津軽飯詰 1992-5

2020年8月16日

工場地帯の17m国電 その2

▲モハ12052 武蔵白石-大川 1990-8

「大川支線」は、全国の其処彼処でまだ旧型国電が現役だった時代から、クモハ12が毎日走る唯一の路線として知られた存在でした。

初見参は1976年の夏休み、確か「鉄道ファン」の投稿欄で見掛けた直後と記憶していますが、東京圏早回りの際に忘れずに立ち寄りました。細長いこの専用ホームも現在は思い出です。
▲いずれも武蔵白石 1976-7

1980年に「浜川崎支線」からクモハ11らが撤退してからは注目度もアップ。
とは言っても1.0㎞に押し込まれた状態に加え、立入禁止地帯ばかりでは同じような画しかできず、飽きが来ようというものです。

しかし1985年、閑散時間帯用に本線に躍り出るや自由度が一気に急上昇。
17m時代はクモハ11+クハ16コンビでしたから、単行というのは戦前の鶴見臨港線以来でした。
▲大川 1990-5

新芝浦駅に進入するクモハ12052。
ここから海芝浦までは立ち入り禁止区間です。

▲新芝浦ー海芝浦 19905

新芝浦と隣の海芝浦駅ホームからの風景は、眼の前に運河が広がる鶴見線独特の雰囲気です。
▲いずれも新芝浦 1990-5

72・73系を引退に追いやった101系も、すっかり板に付いた様子。
▲いずれも武蔵白石 1990-5

広い構内を持つ安善駅。長いホームを持て余し気味です。
▲いずれも安善 1990-5

クモハ12は2両の仲間のうち、製造時期の違いから052はリベットゴツゴツが目立ち、相方の053はこれが少なくスッキリした印象。052は現在も大井工場(現:東京総合車両センター)で保管されています。
▲浅野 1990-5 

大川を発車する052。
日中はド逆光になるため、陽の長い時期の夕暮れが狙い目でした。
▲いずれも武蔵白石-大川 1990-8

大川支線は限られたアングルに障害物ばかり写り込む・・・などと考えながら、この時は適当にシャッターを切ったような感あり。しかし、却って工場地帯らしいと言えなくもありません。改めて見ると結構お気に入りのカットかも、と勝手に悦に浸る管理人でした。
▲いずれも武蔵白石-大川 1990-8

▲新芝浦 1990-5

2020年8月8日

眠れる名作の発掘 その9

▲北陸鉄道モハ572 七ツ屋  1964-10

かつて総延長140㎞を超える路線を有していた北陸鉄道。
1960年代の各線には創業期からの強者に加え、他路線からの種々雑多なデンシャが集うばかりでなく、珍妙な改造を受け事業用になった者あり電気機関車に化けた者ありとまさに百花繚乱状態でした。

・・・という訳で今回は手許にある記録の中から、1964年秋に撮影された浅野川線をアップしてみます。
▲モハ3102・3501 北鉄金沢 1964-10

半世紀前の浅野川線は前身の浅野川電気鉄道時代からの2軸車に加え、他社転入組も加わって趣味的にも魅力満載でした。

こちらは旧浅電デハ1のモハ573です。
凄まじい風体ながら、北鉄金沢の先から分岐して国鉄線に通ずる連絡線を貨車を牽きながら往復していたようです。
こちらは更に強烈なモハ572。
今は1面1線の無人駅となった七ツ屋駅、当時の構内は広くささやかなネグラがありました。
▲いずれも七ツ屋 1964-10

伊那電や国鉄OBもやって来ます。
元伊那電・モハ3102は古めかしいダブルルーフながら、1927年製の半鋼製車。この後間もなく石川総線に転属していきます。
前面窓を強引に3枚に伸ばした感ありのクハ1651は、旧国鉄キサハ04です。

モハ3571は、遠州鉄道が戦後に新造したモハ13の車体に手持ち部品を組み合わせて誕生。
Hゴムだらけの顔もローカル私鉄らしくて悪くありません。

▲いずれも七ツ屋 1964-10

60年代も後半に入ると、石川総線系は名鉄大型車の大量投入によって一挙に整理が進みます。そしてこの名鉄車への画一化が、その後の車種統一への布石になりました。

その後も雑多なオリジナル車が残った浅野川線でしたが、北鉄金沢駅地下化に伴う車両不燃化対策に迫られる形で、こちらも一気に幕が引かれました。
▲いずれも七ツ屋 1964-10