2022年5月26日

可部線点描


▲可部線クモハ73041ほか 上八木-中島 1980-9 

1980年秋の「初めての九州行の道中、散々寄り道しながら云々・・・」で始まる記事も、夜の大阪駅撮影記から始まって結構な数になりましたが、今回はこちらです。

別府鉄道で1日を過ごした後は、広島周辺で寄り道することにしました。
広島駅前の安宿を足場にしたはいいものの、全てが初めてでしたから標的は絞らざるを得ません。迷った挙句に広電は断念、終焉が囁かれていた旧型国電を優先することにしました。
▲クハ79308ほか 上八木-中島 1980-9

さて、可部までの区間は家々を縫うような風景ばかりで、走行シーンを狙えそうなポイントはありません。先ずは本日の出動メンバーの「停まり」をこちらの駅で押さえます。

1枚目・先頭のクモハ73313は全面窓が原型のまま残っているうちの1両で、DT14を履いた異色車。各車とも近代化改造やアコモ改造を受けてはいるものの、ローカル線向けの簡易工事だけで見た目の変化が余りないメンバーも多く、形態はまさに千差万別です。


▲いずれも古市橋 1980-9

メインの走行シーンは、ド定番ながら上八木-中島間の太田川橋梁で構えました。



▲いずれも上八木-中島 1980-9

途中から空模様が怪しくなりモノクロに切り替え。
唯一の撮影ポイントですから、何度も土手に登ったり河原に下りたり、レンズを取替え引っ替えしながら粘りました。4枚目の先頭、クモハ73は試作近代化改造車の001でしょうか。



▲いずれも上八木-中島 1980-9

この頃、1往復だけあった貨物。可部以遠に直通するキハも姿を見せました。



▲いずれも上八木-中島 1980-9

可部駅に休むクモハ73041。
総勢20両のうち原型に近い前面を有するのは5両で、この日は2両を見ることができました。4枚目、よく見ると腕木信号機が写り込んでいますがこの時は全く気が付かず、これを目立たせるフレーミングにすれば良かったと後悔する羽目に。




▲いずれも可部 1980-9

こちらは帰り際に覗いた広島機関区。当時既に珍しかった二重屋根のスエ30がいました。

▲広島機関区 1980-9

下津井電鉄 →→ その1 / その2
別府鉄道 →→ その1 / その2 
瀬野のEF59 →→ こちら
熊本電鉄 →→ その1 / その2 / その3

「72・73系の解説が物足りん!」「アコモ改造の話はどうした」「そもそも車両形態の分類とは・・・」などなど、この分野に関しては一家言ある方も多いでしょうから、めっぽう疎い管理人はこの辺にしておきましょう(笑)。

さて、この時三段峡まで乗車すれば良いものを、早回り旅ゆえ「乗り潰し」は後回しにせざるを得ませんでした。1984年に105系が登場すると疎遠になってしまい、再訪の機会のないまま2003年に非電化区間は廃線になってしまいます。

この時広島近辺で粘ったもう一つの目的はセノハチ。
暑さと雨模様に負けて沿線での撮り歩きは断念しましたが、其処彼処に屯する古典機を間近に見られて充分に満足でした。

▲いずれも瀬野機関区 1980-9

2022年5月15日

野上電車の夜 その4


▲野上電鉄モハ31 登山口 1992-8

「フィルム本数の稼ぎ頭路線」第1位は、中小を押しのけて名鉄揖斐・谷汲線がダントツで、2位は野上電車。双方とも昭和初期の電車が最後まで現役だったことが最大の原動力ですが、無粋な改造を受けた名鉄と比べて野上はほぼ原型のまま、という点は大きな違いでした。

沿線風景は住宅地と田畑が混在する平凡さながら、変らぬ姿の阪神・阪急OBに加えて白熱灯だらけの駅風景がこれに花を添えていました。

1992年夏のこと、この日も早朝の日方からスタートです。
▲連絡口 1992-8

来る度に陣取るのは北山から野上中辺り。
沿線では最も開けた区間で、四季の変化が感じ取れる数少ないポイントです。

お気に入りの2両、うちモハ24は「チョコボール電車」に化け、最古参のモハ23も既に休車になってしまい魅力は半減。ただ朝晩の「阪神の明かり窓」ことモハ31コンビや、日中の単行に入ることが多くなったモハ25・27といったメンバーはまだまだ元気でした。
▲野上中-北山 1992-8

▲北山 1992-8

早朝から沿線を徘徊しているうちに、重根で夕暮れを迎えました。
ここから朝方の2連が再出動、終電まで運用に就きます。

▲いずれも重根 1992-8

辺りに夕闇が迫る頃、改めて全線を往復することにしました。
紀伊野上を過ぎる頃からすっかり暗くなり、数えるほどの乗客も途中でみんな降りてしまいました。登山口から折り返し列車に乗り込んでくる客もなく、モハ31+32が寂しそうに発車を待ちます。
▲登山口 1992-8

発車時刻が迫っても、誰も乗って来ませんでした。
駅前のバスはとっくに終わってしまったでしょうし、メイン通りに開いている商店も酒場もなく、あとは遠く民家の灯がポツリポツリと見えるだけでした。

▲いずれも登山口 1992-8

一人、モハ31に乗って北山で下車。
ホーム脇の電柱に、裸電球がポツンと点いていました。



▲いずれも北山 1992-8

北山から次列車のモハ24に乗って帰ることにします。
無人電車だったのが、途中から一人二人と乗ってきた時は少しほっとしました。


▲いずれも重根 1992-8

日方で上り最終電車を待ち構えて終了。
僅かな乗客が駅舎から出るや、いきなり構内の電気が全部消されたのには仰天してしまいました。



▲いずれも日方 1992-8

野上電車の夜 →→ その1 / その2 / その3

杜撰な経営体質と廃線間際の騒擾ばかりが話題になり、その度に暗然とした気分になりがちな野上電車。しかし、この頃はまだ至って長閑で、平和なローカル線の印象しかありませんでした。

▲紀伊野上 1992-8

2022年5月6日

「デワ」のスナップに寄せて



 ▲松本電鉄モハ10形 1963年

1960年代前半までの松本電鉄には、生抜きの古強者を始め信濃や西武、京王OBといった多彩な木造車が闊歩していました。

しかし時あたかも日車標準車体が誕生、格好の標的となった彼らは、あっという間にこれに載せ替えられて画一化が完了してしまいます。加えて1973年に貨物列車が廃止されWHのED30も昼寝の日々に、これでは鉄道好きの食指も動きません。

▲アルピコ交通の現在も硬券は健在

▲電車の画一化と浅間線廃止は同じ頃だった

・・・という訳で、今回は手元の古い記録からこちらをお送りしてみます。

ED40形はまだ誕生しておらず、当時唯一の事業用車だったデワ2。
古いワムかワフを適当に改造したような印象ですが、元は1918年天野工場製・伊那電デワ5という由緒正しい車でした。先輩格のデワ1は、ワフ化改造を経て早くも1955年に廃車されています。



▲いずれも新村 1963年

初めて自分で乗ったのは1976年の夏休み。
夜行急行「妙高5号」で上野を発ったのを皮切りに、長野→松本→名古屋→東京と「大回り一筆書き」の道すがらのことでした。この時は新村で保管されている旧甲武の「ハニフ1」を見るのが主目的でしたが、専用の車庫で鎮座しているのを瞥見できただけでした。


▲いずれも新村 1976-7

2回目の訪問は1985年春、日車標準車体にも引退の噂が流れてくるようになった頃。
休日だったせいか車庫には誰もおらず、ハニフとの再会は叶いませんでした。




▲いずれも新村 1985-4




▲いずれも新村-三溝 1985-4

ところで冒頭のフィルムには続きが写っており、こちらもお目にかけます。
1955年、当時の松本市長から邪魔者扱いされてからも、しばらく持ち堪えて余喘を保った浅間線ですが、襲来する車社会に抗し切ることは出来ませんでした。廃線は64年、ちょうど上高地線の電車たちの車体載せ替えが終了するのと同時期でした。



▲いずれも横田 1963年

日車標準車体から東急青ガエル、次いで井の頭線3000系。
しかもうーむな装束に改造され趣味的には余りそそられない電車の変遷が続き、この3月からは東武20000系が20100形として再就職しています。

しかしあの変貌ぶりを見ると、果たして訪問する日は来るかどうか・・・「アルピコ」社紋の入った切符の蒐集だけでは物足りなく、ちょっと決断できない昨今です。


▲新村 1985-4