▲583系「みちのく」 上野 1978-9
1970年代、関東の鉄道少年にとって大阪や岡山から発車する優等列車群は憧憬の的。
管理人にとって、この50年間揺るぎない永遠のヒーローはEF58大窓機が牽く20系「あかつき」と「彗星」ですが、一方で581・583系もまた忘れられない存在でした。「月光」「つばめ」「はと」「みどり」「しおじ」「きりしま」「明星」・・・と今でも愛称が次々に浮かんできます。
この時代、遠く離れた同好者同士で写真を交換するのが流行っていて、鉄道誌の末尾にあった読者コーナーにも「交換」「譲る」「求む」といった投稿が数多く掲載されていました。ご他聞に漏れず、管理人もまた自分の拙いスナップ写真を関西の鉄道少年に送り、「『あかつき』『彗星』『月光』『つばめ』があったら是非お願いします!!」などと手紙を添えたりしていました。
▲こちらからは東北・上信越特急や東武の写真を送りました
しかし実物に間近で触れることは遂に叶わず、1975.3ダイヤ改正で大半が消滅。遠く千尋の海の向こうに行ってしまいました。
そんな思い出があるからか、当時のダイヤ改正を特集した鉄道誌は大方を処分してしまった今も本棚の一角に残り、交換した写真はすっかり色褪せながらもアルバムの片隅で眠っています。
さて、次はもう一つの583系の牙城だった常磐線です。
一時期は7往復を誇った「ゆうづる」は常磐線の代表格にして初の寝台特急。管理人的にはEF80+20系のイメージですが、残念ながらヘッドマークの付いた時代には間に合いませんでした。
▲いずれも上野 上:1975-7 下:1974-8
2002年10月、この時は行楽シーズンの臨時列車として「ゆうづる」が運転されました。
イベントではないから時刻表にもしっかりと載り、駅は同業者だらけでパニック状態に違いないと思いつつも、583系の出動とあれば放っておけません。最低限の機材だけ持って、仕事帰りに寄ってみます。
マトモなカットは諦めて、アップ気味で撮ってみます。
先頭部にはJNRマークの消された傷跡が痛々しく残っていました。
「ゆうづる」人気はこの通り。
現在なら頼まれても行きたくないシチュエーションで、カメラに三脚更には脚立が錯綜していながら、しかし以外に粛々と事が運んでいたような記憶があります。
特にイガミ合いも見られず、まして職員を恫喝する輩なんてのもいませんでしたが、これは今のように「ネコも杓子も」写真や動画を撮る時代ではなかったことと、決して無縁ではないでしょう。
▲いずれも上野 2002-10
さて、最後は「みちのく」です。
「白鳥」「まつかぜ」「おおとり」と並ぶ屈指のロングラン昼間特急で、グリーン車や食堂車を連結した堂々の13両編成。まさに特急の名に相応しい列車でした。
青森を早暁に発車し延々と上ってきた「みちのく」は13:45、縄張りの20番線に到着。函館発0時過ぎの青函連絡船に接続していました。
▲上野 1978-9
こけしマークは少々うーむながら、リバイバル列車「思い出のみちのく号」が運転されるという情報を得て、この日もJRの策略に乗っかります。
これは前日に「思い出のはつかり号」で上ってきた列車が、折り返し「みちのく」になり青森に戻るという仕立てでした。先ずは大宮からの回送列車を、大勢の同業者と共に日暮里で待ち受けます。
▲上野-日暮里 2002-11
下りがやってくるまでの間、数を減らしていたこちらも押さえます。
▲上野-尾久 2002-11
光線状態や同業者の人山をクリアすることができず、下りも同じ立ち位置で。これが文字マークだったらなあ。
▲上野-日暮里 2002-11
急行のリバイバル運転もありました。
この頃は連日早起きをし、先が見えていたブルートレインも馴染みの西日暮里で押さえておきました。
583系はこの年以降も臨時やイベントで度々登板、しかし編成も短くなり既に満身創痍の様相でした。2003年早春に本拠地だった青森運転所が閉鎖されると、終焉の地となる仙台や秋田で細々と生き長らえるも、そこには東西の第一線で飛ばしていた全盛期の面影はもうありませんでした。
▲上野 1977-5