2024年4月29日

秋風「ばたでん」曇り空


▲一畑電車デハ53+52 大寺-美談 2008-10

2008年夏だったか、雑誌の片隅に「デハニ52+53の臨時列車が出雲市-雲州平田を2往復する」との記事を見つけ、しばらく考え込みました。

力行姿を渇望するもデハニには振られ続け、走る姿を拝んだのは1982年夏の1回だけです。
この頃は既に定期運行から外れてはいましたが、お座敷電車に改装され当面は安泰だろう、しかし北松江線の近代化も完了しいつ引退してもおかしくないお年頃、ここは機を逃してはマズイと強引に自分を納得させ、大枚をはたいて一路松江に向かいました。

▲旅伏-雲州平田 2008-10

さて丸1日かけて到着、早速撮影ポイント探しです。
先ずは馴染みの大寺の様子を見てみますが、ホームには素っ気ない待合所ができ、周辺は田圃がつぶされて新しい道路や住宅ばかりが目立ちます。田圃の中にポツンと佇む可愛らしい木造駅舎、という風情は20年の経過と共に全く消え失せていました。

▲いずれも大寺 上:2008-10 下:1994-8

大寺は諦めて更に徘徊。
合間にはビミョーな装束の南海丸ズームがやって来ます。練習代わりに撮っていた感ありながら、今となっては正解でした。



▲旅伏-雲州平田 2008-10

こちらは前回、1994年訪問時のカット。
始発電車が走り出す頃から撮影場所を散々探した挙句、結局前後が押さえられる一畑口のホーム先端に陣取ってひたすらデハニを待ちました。デハ20形+デハニの3連しか頭になかったですから、これが視界に入った時のショックは未だに忘れられません。

▲恨めしやの3両編成 いずれも一畑口 1994-8

そんなことを思い出しながら雲州平田近くの跨線橋で構えていると、本命がやってきました。一畑電車はとにかく物凄いスピードというイメージがありますが、お座敷電車だからか至極ノンビリと走っているように見えます。

すぐに折り返して来る復路も同じ跨線橋の反対側で。
窓が木枠のまま残るデハニ52の走行シーンはこれが初めてでした。

▲いずれも旅伏-雲州平田 2008-10

今回の運転区間は風景的には今一つ。
以前撮り歩いた場所はどこも住宅地になっていたり道路が広がっていたりで別物のように変貌し、年月を痛感します。散々歩き回り、線路端の小道が昔のまま残っていた大寺-美談で短い旅を締めることにしました。


沿道に咲くコスモスを強引にフレームに入れてみます。
乗客らと何か話していたのか、運転士の笑顔が印象的でした。結局この日は秋の陽が顔を見せることはありませんでした。
▲いずれも大寺-美談 2008-10

最後の1本は「推し」のデハニ52のお顔アップを狙います。
暗い空のせいで露出が上がらず、ピンぼけになってしまいました。

▲いずれも大寺-美談 2008-10

振り返ると美談駅。
ここにも味気ない待合所が建ち、駅舎は消えていました。大寺、布崎、旅伏、園、伊野灘・・・かつては小駅にも委託のおばちゃん駅長がいましたが、1970年代後半から次々に無人化され、乗客らとのやり取りもなくなっていきました。

美談を発車。
駅前の民家を囲んでいた築地松も、きれいサッパリなくなっていました。これで今回の短い撮影行もお仕舞です。
▲いずれも美談 2008-10

この頃は駅舎の改築も完了、既にこうした風景は過去のものになっていました。
途中の有人駅も川跡と雲州平田のみで、残りは悉く無人化されています。これらのカットを眺めながら、窓口で入場券を所望したり補充券を作ってもらったり、川跡のおばちゃん駅長になる大音声の名物アナウンスにしばし思いを馳せました。





▲上:川跡 中:秋鹿町 下:津ノ森 いずれも1989-10

2024年4月20日

下町と昭和デンシャ

 ▲東武鉄道モハ8577ほか 亀戸水神-亀戸 2023-10

「東武の代名詞」といえば管理人世代だと特急車はDRC、そして通勤車は8000系になるでしょうか。一時はどこに行ってもウンザリするほどやって来た8000系列、しかし最近は野田線や支線区でも世代交代が進み、いよいよ先が見えてきました。

73・78系が第一線で現役だった時代は結構な頻度で通っていた東武線ですが、この10数年はすっかりご無沙汰です。ここは野田線の動態保存車といきたいところ、しかし中途半端に遠い上にたった1本を追い駆けるのも敷居が高く、先ずは現役メンバーを押さておこうとお手軽撮影を決め込むことにしました。

▲堀切 2024-3

という訳で、44年ぶりに堀切で下車してみました。
乗降客は少ないし急カーブした構内が絵になりますから、ホームを行ったり来たりしながら変化球アングルを狙ってみます。

10000系も2代目りょうもう号も、考えてみれば30余年選手。
特に200系は後継車が幅を利かせてきたし、引退の足音が近づいてから慌てて出向くという愚を繰り返さないためにも、ここはリキを入れて押さえておきます。
▲いずれも堀切 2024-3

こちらは1980年の堀切。
73・78系は遠く伊勢崎まで出張していました。この駅独特の雰囲気というか空気感は変わっていないですね。

▲いずれも堀切 上:1980-5 下:1980-12

次は曳舟で下車、最近ハマっている古い商店街めぐりです。
関東では数を減らしたりリニューアルされて別物に変貌したりしていますが、この辺りは下町の雰囲気が色濃く残っています。観光地によくある「なんちゃって駄菓子屋」ではない、本物の駄菓子屋さんも店を開けていました。
▲いずれもキラキラ橘商店街 2024-3

古い家並みとスカイツリーという不思議な風景。
コロナ禍のせいかそれ以前からか、廃業した店舗も多く身につまされます。


▲いずれも墨田区京島 2024-3

当てもなくふらついていると、偶然この踏切に。
ここからは亀戸線に転戦することにします。
▲曳舟-小村井 2024-3

東あずまホーム先端から。亀戸線は急カーブが多く、これを強調してフレーミングしてみます。




▲いずれも東あずま 2024-3

こちらは別の日、亀戸から撮り歩いた際のカットです。
「緑亀」ことこのリバイバル色編成も、つい最近引退してしまいました。これを含め1950年代の試験塗装を3つも揃えるとは何とマニアックな、と思ったものですが上層部に相当な鉄道オタクがいたとしか思えません。どうせならオレンジ+クリームのツートンもここで動かして欲しかった。


▲いずれも亀戸水神-亀戸 2023-10

この時は京成金町線にも足を伸ばしました。
3500系の初期車は既に車齢50年超で、もちろん最長老。「パンダ顔」を始め諸処更新されてはいますが、角ばった昭和スタイルは結構好みです。まだ当分安泰と思いきや、設備投資計画によれば今年度から後継車になるであろう2代目3200系が登場するようで、一気に世代交代が進むかも知れません。
▲柴又-京成金町 2023-10







▲京成高砂-柴又 2023-10

学生時代、撮影対象とするデンシャは「戦前製かせいぜい昭和30年代製まで」決めてかかっていました。しかしそれらもほぼ全滅、今は「昭和顔プラス菱形パンタなら何でもOK」になり、カドが取れたというべきか守備範囲が寛容になってきました。

裏を返せば今風のデザインはどうにもうーむなものが多く、相対的にそれ以外なら何でも可となった訳ですが、この傾向は一生治りそうにありません。果たしてあと20年くらいカクカク昭和顔は見られるでしょうか。

▲堀切 2024-3

2024年4月10日

「じゅうかん」 最後の冬を行く

▲南部縦貫鉄道キハ102 野辺地-西千曳 1997-2

「じゅうかん」営業休止を間近に控えた1997年早春のこと、一度くらい雪景色を抑えておこうと鉄研時代のメンバーらと画策。訪問の度にお世話になった寝台特急「はくつる」下段をこの日も奮発、徒党を組んでの撮影行は何年かぶりでした。

列車での訪問のハードルがめっぽう高い当線。
しかも真冬となればその高さは一気に上昇しますから、どうしても二の足を踏んでしまいます。この日は青森勤務だったメンバーが飛ばす四駆に便乗させて貰い、水を得たナントカのようにあちこち撮り回ることができました。
野辺地-西千曳 1997-2

新雪の上を滑るように、快走ならぬダンダンと独特の律動で走るキハ102。小さな体躯に巨大スノープラウが厳しいモーターカーも出動して来ました。
▲後平-坪 1997-2



▲いずれも西千曳-後平 1997-2

坪川駅前の小高い丘から。
夏場は草が深くて立ち入れませんが、この時は三脚を杖にして昇ってみました。


▲坪川 1997-2

300mmを付けたサブカメラに持ち替えて追いかけます。
▲坪-坪川 1997-2

午前の運用が終わって一休み中のキハ102。
もしやと期待していたキハ104の出番はなく、ちょっとガッカリです。営業休止間際に殺到した鉄オタ軍団(自分らもですが)をレールバス1両で捌き切れず、続行運転で出動したと後で聞きましたが、何とも皮肉な役割ではあります。
▲いずれも七戸 1997-2

午後の2番列車が来る頃にはもう薄暗くなって来ました。
▲営農大学校前-盛田牧場前 1997-2

野辺地行の最終列車を見送って1日目は終了。
このまま青森に向かうのか野辺地に泊まるのか、同業者らで満員御礼です。

▲七戸 1997-2

十和田市の安宿で集団合宿をした翌日は、生憎の鉛空。
前日と同じ西千曳で構えてみますが、露出が稼げずモノクロに切り替えです。この日も始発から超満員でした。
▲野辺地-西千曳 1997-2


最後のコマはこちらのアップダウンで構えます。
これにて最終回が終了、すぐ後ろにある坪駅ホームに一同集合し、記念撮影をして打ち止めにしました。

さて、「じゅうかん」を語る上で欠かせないのが新幹線アクセス。
これを夢見ながら延命を繰り返してきた当線も、国鉄清算事業団から借用していた野辺地-西千曳間の敷地買取の見通しが立たず、ついに今回の休止に追い込まれます。敢えて廃止にしなかったのはまだ新幹線への希望を捨てていなかったとされていますが、仮に用地問題をクリアできたとしても、車両も施設もとっくに限界を超えている上に、新幹線駅まで新線をつなぐ莫大な資金はどうする算段だったのか・・・これは今も疑問です。



▲いずれも後平-坪 1997-2