▲ナハネフ22「ゆうづる1号」 上野 1975-1
溜まりに溜まったフィルムを全部データ化しようと思い立って早10年。
スローペースながら初期のカラーネガは8割方終了、しかしこれより数倍多いモノクロやリバーサルフィルムは5割方とまだまだ頂上は見えません。
・・・ならばお気に入りのコマだけ選定すればよいものを、「1本丸ごとデータ化 → 画像ソフトで納得いくまで修正 → 1枚のカットからトリミングや色調を微妙に変えた派生カットを量産」を繰り返すものだから、不効率この上なしです。
しかも、最近はそれまで見向きもしなかった「かつての没カット」にも手をつけたものですから、不効率に一段と拍車がかかってきました。
まあ押し付けられた仕事でもなし、マイペースでやれば良いとは分かっているものの、どうも生きているうちにめでたくデータ化完了とはいかなそうです。
▲何十回も通った上野。右端には「DISCOVER→JAPAN」の広告塔 1974-8
・・・という訳で、今回は失敗作カットに陽を当てるシリーズ第2弾、1975.3大改正前夜の東京・上野からです。
75.3改正では東京口から20系の大部分、「あさかぜ」の一部と「瀬戸」を除く全てが24系化。鉄道誌はこぞって特集記事を出し、当時の鉄道少年らはこれらを貪り読みながら落ち着かない日々を送っていました。
ようやく陽が差し始めた7:00、上り列車の先陣を切って「出雲」が到着です。この日は遅れが出たせいか、縄張りの12・13番線ではなく7番線に滑り込みました。
▲いずれも東京 1975-1
改正を間近に控えた日曜日、東京駅はコンパクトカメラを携えた鉄道少年でごった返していました。定番機はオリンパスペンやコニカやフジカ、リコーオートハーフ、コダックポケットカメラといった陣容で、一眼レフはまだまだ高嶺の花でした。
これらコンパクトカメラは単焦点の広角レンズ(28mmや35mm)が大勢で、みんな勢い車両に近づくせいか彼らが写り込んでいるカットばかり。しかし後になって見返すとこうしたカットの方が楽しく感じたりします。
▲いずれも東京 1975-3
修学旅行カラーの167系も健在。
155系と共に臨時急行「おくいず」によく充当されていました。ローカル運用には大目玉・非冷房の111系もいます。伝統の急行「東海」は153系ばかりでした。
▲いずれも東京 1975-3
最長急行「桜島・高千穂」が静々と入線してきました。
これから28時間を超える途方もない長旅の始まりです。中学時代、「鉄道ジャーナル」誌に載った乗車ルポに触発され「いつか乗ってやる」などと意気込んだものでしたが、叶わぬ夢に終わりました。
盗難防止のためでしょうか、愛称版は職員のお手製と思しき厚紙製。途中、風で飛ばされないのか変な心配をしてしまいます。
これらのフィルム原版は猛烈な露出アンダー。銀塩時代にはとてもプリントできる代物ではありませんでしたが、オソマツ写真をこうしてお披露目できるのもデジタルの恩恵です。
誰かが悪戯でひっくり返したのか、「急行」と手書きされたサボの裏面にはこちらが出現。どうやら廃品利用だったようですね。
▲いずれも東京 1975-3
一方の上野口。
劇的な変貌を遂げた東京口に比べ、こちらは1978.10改正までの「つなぎ」といった程度の小規模な変化でした。181系もしばらくは安泰です。
▲いずれも上野 上・中:1975-3 下:1975-7
かつて「ディーゼル王国」と称された千葉局各線も、この改正を機に全てが電車化されます。循環急行「なぎさ」「みさき」が廃止になるのと引き換えに、「内房」「外房」が登場しました。
▲いずれも両国 1975-3
こちらは改正後の両国。
劇的な変化に車両が追いつかなかったのか、当初は非冷房の153系も充てられ乗客には不評を買いました。
いつからか、「上野・東京を発着する全ての特急列車、且つ全ての形式をコンプリートする」なんて目標を立てたものだから、この両駅では似たようなコマを大量生産することになりました。遠目に見ればヘッドマークやヘッドサイン以外どれも同じにしか見えません。
しかし、ヘッドマークやヘッドサインへの憧憬というか、蒐集アイテムとしての地位は未だに不動であると思っています。その証拠にこれらをデザインしたグッズは未だに至る所で見かけるし、鉄道少年をはるか昔に卒業したオッサン達にとって、ヘッドマーク・ヘッドサインはまるで親しんだ駄菓子のように切っても切れない縁なのでしょう。
▲上野 1975-1