2024年8月25日

鉄道少年のガラクタ写真箱 その2

▲ナハネフ22「ゆうづる1号」 上野 1975-1

溜まりに溜まったフィルムを全部データ化しようと思い立って早10年。
スローペースながら初期のカラーネガは8割方終了、しかしこれより数倍多いモノクロやリバーサルフィルムは5割方とまだまだ頂上は見えません。

・・・ならばお気に入りのコマだけ選定すればよいものを、「1本丸ごとデータ化 → 画像ソフトで納得いくまで修正 → 1枚のカットからトリミングや色調を微妙に変えた派生カットを量産」を繰り返すものだから、不効率この上なしです。

しかも、最近はそれまで見向きもしなかった「かつての没カット」にも手をつけたものですから、不効率に一段と拍車がかかってきました。
まあ押し付けられた仕事でもなし、マイペースでやれば良いとは分かっているものの、どうも生きているうちにめでたくデータ化完了とはいかなそうです。

▲何十回も通った上野。右端には「DISCOVER→JAPAN」の広告塔 1974-8

・・・という訳で、今回は失敗作カットに陽を当てるシリーズ第2弾、1975.3大改正前夜の東京・上野からです。

75.3改正では東京口から20系の大部分、「あさかぜ」の一部と「瀬戸」を除く全てが24系化。鉄道誌はこぞって特集記事を出し、当時の鉄道少年らはこれらを貪り読みながら落ち着かない日々を送っていました。

ようやく陽が差し始めた7:00、上り列車の先陣を切って「出雲」が到着です。この日は遅れが出たせいか、縄張りの12・13番線ではなく7番線に滑り込みました。



▲いずれも東京 1975-1 

改正を間近に控えた日曜日、東京駅はコンパクトカメラを携えた鉄道少年でごった返していました。定番機はオリンパスペンやコニカやフジカ、リコーオートハーフ、コダックポケットカメラといった陣容で、一眼レフはまだまだ高嶺の花でした。

これらコンパクトカメラは単焦点の広角レンズ(28mmや35mm)が大勢で、みんな勢い車両に近づくせいか彼らが写り込んでいるカットばかり。しかし後になって見返すとこうしたカットの方が楽しく感じたりします。




▲いずれも東京 1975-3

修学旅行カラーの167系も健在。
155系と共に臨時急行「おくいず」によく充当されていました。ローカル運用には大目玉・非冷房の111系もいます。伝統の急行「東海」は153系ばかりでした。



▲いずれも東京 1975-3

最長急行「桜島・高千穂」が静々と入線してきました。
これから28時間を超える途方もない長旅の始まりです。中学時代、「鉄道ジャーナル」誌に載った乗車ルポに触発され「いつか乗ってやる」などと意気込んだものでしたが、叶わぬ夢に終わりました。


盗難防止のためでしょうか、愛称版は職員のお手製と思しき厚紙製。途中、風で飛ばされないのか変な心配をしてしまいます。

これらのフィルム原版は猛烈な露出アンダー。銀塩時代にはとてもプリントできる代物ではありませんでしたが、オソマツ写真をこうしてお披露目できるのもデジタルの恩恵です。






誰かが悪戯でひっくり返したのか、「急行」と手書きされたサボの裏面にはこちらが出現。どうやら廃品利用だったようですね。
▲いずれも東京 1975-3

一方の上野口。
劇的な変貌を遂げた東京口に比べ、こちらは1978.10改正までの「つなぎ」といった程度の小規模な変化でした。181系もしばらくは安泰です。


▲いずれも上野 上・中:1975-3 下:1975-7

かつて「ディーゼル王国」と称された千葉局各線も、この改正を機に全てが電車化されます。循環急行「なぎさ」「みさき」が廃止になるのと引き換えに、「内房」「外房」が登場しました。

▲いずれも両国 1975-3

こちらは改正後の両国。
劇的な変化に車両が追いつかなかったのか、当初は非冷房の153系も充てられ乗客には不評を買いました。



▲いずれも両国 1975-7

いつからか、「上野・東京を発着する全ての特急列車、且つ全ての形式をコンプリートする」なんて目標を立てたものだから、この両駅では似たようなコマを大量生産することになりました。遠目に見ればヘッドマークやヘッドサイン以外どれも同じにしか見えません。

しかし、ヘッドマークやヘッドサインへの憧憬というか、蒐集アイテムとしての地位は未だに不動であると思っています。その証拠にこれらをデザインしたグッズは未だに至る所で見かけるし、鉄道少年をはるか昔に卒業したオッサン達にとって、ヘッドマーク・ヘッドサインはまるで親しんだ駄菓子のように切っても切れない縁なのでしょう。
▲上野 1975-1

2024年8月16日

五月雨の世代交代 その2



▲岳南鉄道5000系回送 吉原 1981-5

さて、雨空を仰ぎながら岳南江尾で下車。
この頃、まだ若干の貨物列車が来ていた筈ですが森閑として人気がなく、タンク車がポツンと置かれていただけでした。

出札口は塞がれ駅員の姿もなく、遠く新幹線高架が見えるだけで何とも殺風景です。これほど寂しい終着駅というのも、あまり見たことがありません。


▲いずれも岳南江尾 1981-5

片隅で寂しそうに佇んでいた元伊那電のED32。
1976年の水害で線路が分断されここに孤立、そのまま復活することなく引退してしまいます。同じ飯田線からの転入組であるED29とは明暗を分かつことになりました。




ホーム外れには役目を終えたであろう小田急トリオ。
戦後輸送の一翼を担ったデハ1900形は富士急や大井川にも仲間がいますが、異色のサハ1950形(1955)の譲渡例はここだけでした。



▲いずれも岳南江尾 1981-5

せっかくですから、1枚くらいは走行シーンを撮ろうと神谷で下車。
この季節らしい甘雨と言えば聞こえは良いですが、暗いし傘は鬱陶しいしで長居はできず、早々と退却です。
▲須津-神谷 1981-5

同行者氏が「もう飽きた」と言うので、次はこちらへ。
思いつきでこうした行動が取れるのも、一声かければ簡単に車庫を動き回ることができたアリガターイ時代ならではでした。

1981年という年は、身延線・大糸線・宇部線・小野田線・福塩線と各地の旧型国電が一気に引退する端境期で、私鉄偏重の管理人も結構な頻度で各線に出没しています。この日は原型の面影を残すクモハ51850やクハ47059に会えました。


▲いずれも沼津電車区 1981-5

吉原へ戻ると、ホームに職員が集まり何やら物々しい雰囲気です。
しばらく観察していると、DLに牽かれた赤ガエルが静々と入線。偶然にも世代交代の瞬間に居合わせました。


▲いずれも吉原 1981-5

赤ガエルを見送り、後は帰るだけになりました。
旅客ホームに目をやると夕刻のラッシュに差し掛かったのか、モハ1105が増結されていました。彼とはこの10年後に大井川鉄道で再会することになります。

こうして最初で最後の小田急車&鋼体化車詣でも終了。
赤ガエルオンリーになったし、これでもう疎遠になるだろう・・・とこの時はそんな感懐に浸りましたが、古典機の牽く貨物とバラエティ豊かな切符に誘われて、この後何度も訪問することになります。


▲吉原 1981-5


▲目まぐるしく版が変わり蒐集家泣かせ



▲連絡券も多彩。果たしていくら散財したのだろうか

2024年8月6日

五月雨の世代交代 その1

 ▲岳南鉄道モハ1905 岳南江尾 1981-5

1981年春、いつものように鉄道誌を繰っていると「岳南の電車が一気に交代する」との報。
沿線は工場ばかりながら、出自も経歴も異なる個性豊かな電機群が気になっていた管理人、ここは機を逃さず訪問です。
・・・という訳で、この日は鉄研メンバーと朝イチの小田急線で向かうことにしました。

しかし、待ち合わせた駅で忠犬ハチ公のように待てど暮らせど、同行者氏はやってきません。今なら10分を過ぎた時点でさっさと先を急ぐところですが、この時は幼気な好青年でしたから、結局1時間遅れの出発になりました。

▲いずれも岳南富士岡 1981-5

さて、吉原に着くと鋼体化車+小田急コンビが待っていました。
クハ2601は元小田急のデハ1600形(1608)。相方のモハ1100形は、開業に当たり西武・駿豆・伊那など多方面から掻き集めた木造車でした。
▲吉原 1981-5

先ずは比奈で下車すると、堂々たる編成のタンク貨物が待機中。
ED10形は旧大井川鉄道のE103で、私鉄向け箱型機の標準形とも言える電機でした。この頃は本線の主役でしたが、1986年に大井川へ里帰りします。



比奈は大昭和製紙の引込線が伸び、旧豊川鉄道のED29がせわしく動き回っていました。
貨物輸送の最晩年、本線は旧松本電鉄のED40、入換え任務は旧名鉄のED50と担当が決まっていましたが、盛業だったこの当時は運用が違ったのでしょうか。


▲いずれも比奈 1981-5

モハ1106の前身は駿豆鉄道のカマボコ木造車・モハ38で、戦災を受けた国電の台枠を流用し、残りは手持ち部品を集めて突貫工事で新造したと言われています。
・・・とそこへ遅れること2時間、同行者氏が悠々と現れました。

▲比奈 1981-5

次は車庫のある富士岡へ。
クハ1107は一見して分かる小田急デハ1300形で、管理人にとっては「配送」を掲げて疾走するデニ1300形時代がお馴染みです。



▲いずれも岳南富士岡 1981-5

同じモハ1100形でも1108は元小田急デハ1607。
1600形は他にもモハ1602・1603がお輿入れしていますが、なぜこれだけ1100形を名乗っているのかよく分かりませんでした。

武蔵野鉄道の木造車にステンレス車体を合体させた、異色のモハ1105も昼寝中。この後間もなく大井川へ嫁ぎ、増結用やオープン客車牽引用に重宝されることになります。



上田温泉電軌(上田交通)→名鉄と流れてきたED501。
貨物の少ない上田では役不足だったようで早々と名鉄に移った後、1969年にやって来ました。高出力が幸いして最後まで入換え用に残り、今も保存されています。
▲いずれも岳南富士岡 1981-5

止む気配のない五月雨空を恨めしく仰ぎながら、次は終点へ。
・・・次回に続きます。
▲岳南江尾 1981-5