2021年5月29日

奇々怪々・木造デンシャ その1


 ▲近江鉄道デハ1 彦根 1960-4

明治のマッチ箱から蒸機動車、戦災復旧車まで歴代の猛者らが改造を繰り返して現存・・・さぞかし屈強な顔触れだろうとのイメージには程遠く、実体は少し田舎臭い湘南型。
近江鉄道には明治・大正の古いデンシャの履歴が連綿と続く、独自の文化がありました。

主要機器の再利用から台枠だけリサイクル、果ては何一つ部品を使うことなく名前だけを引き継いで、その結果戸籍の上では100余歳・・・かように近江の車歴は複雑極まりなく、調べ出したら袋小路。

言ってみれば私鉄版「パンドラの箱」でした。

▲新八日市 2000-8

マトモに調査しているのは余程の鉄道史オタクでしょうし、あまり触れたくない世界かもです。しかし、フトした思いつきから手元に残る満身創痍のフィルム原版をデータ化・修復したのをきっかけに、改めて調べ直すことに。この切符と「私鉄車両めぐり」を参考書に、記事にまとめてみることにしました。

▲1973年から3年かけて発行。全10集46枚、「私鉄車両めぐり」よりも単純明解

先ずはこちら、1928年の電化開業時に登場したデハ1形。
前身は神戸姫路電気鉄道(→宇治川電気→山陽電鉄)が1923年に導入した1形ですが、車体だけが当時傘下だった近江へお輿入れ、手持ちの部品を組み合わせてデビューします。

大正末期の木造車体ながらモニタ屋根ではなく、緩いRを描いた前面や大き目の窓は何となく軽快な印象を受けます。1963年から自社お手製の湘南車体に載せ替えられた後も長く活躍しました。

デハ1は宇治川電気の元9号。


デハ2と3はそれぞれ元宇治川電気の2・3です。
側面の巨大広告も時代を感じさせますね。



▲いずれも彦根 1960-4

こちらはお馴染み「近江形」湘南車体に載せ替え後のクハ1220+モハ3。
西武の塗色変更に合わせ、赤基調から黄色+銀帯のうーむな風体に変身していました。



▲いずれも彦根 1984-7

モハ1形のうち、湘南形に改造され最後まで残ったモハ2+クハ1222は往年の西武カラーに復元されて、引退前の花道を飾りました。やはりこれには鈍重なTR11系台車が似合いますが、末期には空気バネのFS40に履き替えて少しだけ垢抜けました。



▲いずれも高宮 2000-8

▲武佐-近江八幡 2000-8

6両の仲間はこの後部品を供給して500形に化ける者あり、1形での引退後も車籍だけ700形や800形に引き継ぐ者あり、はたまた1形のまま天寿を全うする者ありと、それぞれ辿る道が分かれました。


▲最終形態がこちら 高宮-尼子 2000-8

あまりにマニアックな内容で、既にお腹一杯な方もいると思います。
管理人自身、早くも気が遠くなってきました。
・・・が、次回に続きます。


▲いずれも高宮 2000-8

2021年5月19日

本山支線のこと

▲クモハ40067 雀田 1980-9

1970年代始めまで全国各地に棲息した旧型国電も、後半から徐々に数を減らし始め、80年代に入るや世代交代の波が一気に加速、いよいよ先が見えてきました。

戦前型の牙城となればこれはもう数えるほどしかなく、「王国」の飯田線始め東は身延線や大糸線、そして西では宇部・小野田線といったところでしょうか。

前面の警戒色は頂けないものの、ブドウ色が第一線で活躍する場として一気にメジャー路線に伸し上がった両線、かく言う管理人も末期に何度か通う機会がありました。


▲いずれも宇部新川 1980-9

初訪問は1980年秋、駅弁売りのバイト代片手に初めての九州行の道中のこと。
別府鉄道や下津井電鉄は勿論、セノハチや可部線、福塩線などと散々寄道しながら、この両線でも延べ2日間粘っています。


▲こちらにも当然立ち寄ります 上八木-中島 1980-9

中でも、クモハ42が日常的に走る小野田線・本山支線は外せない存在でした。
京阪神区間の高速運転で鳴らしたクモハ42はその後も飯田線始め地方に転戦、小野田線が終焉の地になりました。単行で行ったり来たりでは何とも役不足でしょうが、残っているだけでも奇跡的かも知れません。

さて、初乗車を果たすべく雀田で待っていると、やって来たのは待ち兼ねた42ではなくクモハ40067。普段はない出番でしょうから幸運と言えなくもないですが、ちょっと拍子抜けです。



▲いずれも雀田 1980-9

気を取り直して唯一の中間駅、浜河内へ。
取り立ててポイントのない当線ですが、この辺り左右に田圃が広がっていました。

▲雀田-浜河内 1980-9

この日、お目当ては朝の3連に入っていました。
42001は埋められた扉がうーむながら、やはり格の違いというか育ちの良さが窺えます。

▲宇部新川 1980-9

その後の訪問でも、やはりクモハ40067だったり僚車の40023(画像3枚目)だったりと、42単行には会えず仕舞いが続きました。

こちらは12年後、4度目の訪問時。
既に旧型国電は絶滅危惧種で、3両の仲間が取り残されたように余生を過ごしていました。
この日の当番、クモハ42006は前後の幌が厳つく残っており、消された前面警戒色と相俟ってやはり男前です。


▲いずれも雀田-浜河内 1992-12

朝の運用が終わると、このまま夕方まで出番がありません。
浜河内から歩いてくると、既にドアが閉まりパンタも降ろされて昼寝に突入していました。

▲いずれも雀田 1992-12

遠目には綺麗に整備されていますが、細部を見渡すとやはりお疲れモード。国鉄時代の銘板が残ります。


▲いずれも雀田 1992-12

こうして最後の訪問もあっという間に終了、この旅のメインだった三井三池専用線を目指すべく、新幹線の客になりました。
▲本線の主役は彼 小野田 1992-12

孤塁を守るように倹しく走ってきた彼らも2003年までに引退、旧型国電最後の生残りが姿を消しました。駅員が常駐していた雀田駅もこの後無人化された由、この時の佇まいは今どうなっているでしょうか。
▲雀田 1992-12

2021年5月8日

午後の目蒲線


▲東京急行電鉄デハ3471ほか 沼部-鵜の木 1981-1

いつも小ブログをご覧頂き、ありがとうございます。
長い間お休みしてしまい、申し訳ありません。

体調やら何やら相変わらずですが、鉄分とは切っても切れない縁の管理人、本日から至極ゆるゆるとながら再開致します。引き続き、宜しくお願い致します。

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「気が向いたので午後からぶらっと」撮りに行けるデンシャというのは皆無になった昨今。
近くでは東急8500系やメトロ7000系などがSNSなどで人気ネタのようですがどうにも食指が動かず、ここら辺は昭和の電車がまだまだ現役の関西に分があります。

管理人の学生時代、ぶらりと行ける筆頭格はこちら、東急目蒲線・池上線でした。
一部が不細工に改造されているとは言え、数多くの戦前型が全く普通に動いていたので、構えなくても気軽に狙えるのも魅力です。


▲デハ3472ほか 沼部-鵜の木 1981-1

1981年冬、この時は期末試験を間近に控えた頃だったでしょうか、気晴らしに夕方近くから出掛けたように記憶しています。何故この駅で降りたかは忘れましたが、目黒から乗り込んで適当に降りたのでしょう。

デハ3450形一派(3450・3500・3650形)については今更あれこれ言うまでもありませんが、50年以上も他社に転じることなく、第一線で活躍し続けた大御所。

同じ3000系列でも3100・3400・3600などが次々に全国に散ったのに対し、頑丈さや使い勝手の良さが幸いしたのか、青ガエルを押しのけて縄張りを守り続けました。

3500形の仲間ながら、早くからノーシル・ノーヘッダ車体に変身したデハ3508。
3500形は1975年から「海坊主化」が始まり瞬く間に全車に波及しました。彼らが来るとガッカリしたのも、今となっては贅沢ですね。


▲いずれも目黒 1981-1

こちらは半年ほど遡った頃の目黒駅。
メンバーは殆ど変わりませんが、間もなく名鉄に嫁ぐ3700形もいました。

▲いずれも目黒 1980-5

既に陽が傾き始めていたのであちこちには移動せず、沼部駅の近くの踏切へ。
デンシャの運用は運次第、この日の在来車は海坊主が目立ちましたが、それでも合間を縫って3450形もやって来ました。




移ってきたばかりの7200形。3連は何とも物足りません。


東横線から都落ちしてきた青ガエルもやって来ます。


季節柄、建物の影が掛かりすぎて何とも撮りにくい。
まあ、急に思いついて来てみただけだし、肩肘張らずに続けます。電車との距離感もほど良く、このユルさが何とも心地良いですね。

何時間も前から場所取りをし、2台3台の重装備で一瞬を切り取るのは違う、鉄道写真の原点であるような気がします(大袈裟ですが・・・)。


▲いずれも沼部-鵜の木 1981-1

こちらは一派がいよいよ最期を迎えた頃。
この時も何か野暮用のついでに撮った気がします。

一部は1950年代のカラーに「TKK」のロゴを纏った姿で有終の美を飾りました。
張上げ屋根・下ライトのクハに、この衣装は違和感が否めませんでした。




▲いずれも蒲田 1988-12