2020年9月27日

美濃町線・白金周辺今昔


▲名古屋鉄道モ524 徹明町 1965-10

以前名鉄美濃町線・白金あたりの風景をアップしましたが(→ その1 / その2)、図らずも1965年当時の記録を入手、そこで今昔風に比べてみました。
新関方面ホームの背後にある屋敷は改築されているものの、変わらずに建っています。
▲いずれも白金 上:1965-10 下:2000-7

徹明町方面ホームには立派な待合所がありました。
隣の商店と思しき建物が気になりますが、待合所とくっついているようにも見えます。

▲いずれも白金 上:1965-10 中・下:2000-7

この当時の塗色は渋いグリーンとクリームのツートンでした。
元美濃電モ520形はさすがに鋼体化されているものの、まだトラス棒が残っています。

▲徹明町 1965-10

下芥見駅は一面の田圃に民家が点在する、ノンビリとした風景でした。
▲いずれも下芥見 1965-10

こちらはお馴染み、上芥見-白金間の「路肩軌道」。
砂埃を撒き散らしながら、510・520形がここを疾駆ならぬ鈍足で闊歩する姿は見ものだったでしょうね。





















▲いずれも上芥見-白金 2000-7

市内線では木造単車が主役。
物持ちの良い名鉄のことですから尚更ですが、1960年代半ばにも拘らずまだまだ我が物顔で闊歩していました。商店街も活況のようで、街全体が元気に見えました。

▲いずれも徹明町 1965-10

▲梅林 1965-10

2020年9月20日

5000と7000

▲帝都高速度交通営団7004 池袋 1975-1

小中学生時代、デンシャにカメラを向け始めた頃は視界に入る物全てが珍しく、片っ端から撮っていたものでした。尤もフィルムが「一枚ナンボ」の頃ですから、シャッターを押す度に緊張を強いられましたが、お蔭で新旧車両を分け隔てなく記録するという結果になっています。

しかし嗜好が明確になっていくにつれ、この姿勢は一気に収縮。
特に管理人の場合はこれがえらく偏ったものとなり、フィルムを何十本も稼いだ路線もあれば小学生時代の数コマ限りもありと、この偏屈さを後悔するも後の祭りでした。

▲何百回も乗った割に記録は・・・?の都営と京急 品川 1975-8 

1975年春の白紙ダイヤ改正前夜の頃、変貌する東京・上野口の優等列車を漏らさず見ておこうと東北線上り夜行列車を愛用、同級生と徒党を組んでは首都圏各駅に出没していました。この改正では東京口から20系がほぼ全滅したほか、上野発の特急・急行網も大幅に変わります。
▲いずれも東京 1975-1

▲上野 1975-1

両国から出る房総急行も顔触れが変わりました。
▲いずれも両国 1975-3

首都圏通いのメインは優等列車群でしたが、行く先々の地下鉄や通勤電車ももちろん写っています。
▲東京 1975-1

▲秋葉原 1975-1

▲上野 1975-3

▲北千住 1974-8

この日は入場券やDJスタンプを蒐集がてら、これを見にわざわざ西船橋まで往復。
しかし、5000系をマトモに撮ったのはこれきりでした。

400両超が製造され、最大所帯を誇った5000系は東西線の顔として長く活躍。120両が東葉高速へ、30両が海を渡った以外は他社へ転じることなく引退します。
▲いずれも西船橋 1975-1

続くコマに写っていたのは登場間もない頃の7000系。
この頃憧れの存在だった6000系の流れを汲む新車のデビューですから、少しでも早く見たかったのでしょう。

有楽町線開業に合わせてデビューした7000系は徐々に版図を広げ、横浜でも見られるようになりました。こちらも340両の一大勢力でしたが、先が見えてきたようです。

下のコマは、当時多用していたフラッシュバルブ(ストロボではなく)を一閃させています。今では恥ずかしくてとてもできませんが、一発50円前後とえらく高かった電球を2つも使うとは、この力の入れようには自分ながらオドロキです。
▲いずれも池袋 1975-1

おそらく百回以上は乗っているであろう6000系も、撮ったのは小学生時代だけでした。
独特のデザインに胸躍らせ、夢中でシャッターを切っていたあの純粋さも記憶の彼方・・・とは何ともはや。
▲上:柏 下:我孫子 いずれも1974-2

2020年9月13日

ジーメンスを追った日々 その4


▲上信電鉄クハ302 上州新屋-上州七日市 1992-12

全体的に平坦な田畑風景の中を行く上信線。
無人駅を殆ど作らなかった歴史もあって、ローカル私鉄にしては立派な木造駅舎が次々に現れますが、それ以外は田んぼやネギ畑・桑畑の広がる退屈な車窓が続きます。

そんな中の一閃は、終点手前の僅かな区間。
そろそろ終点かと飽き始めた頃、下仁田の一つ手前・千平を出た途端に山が迫りカーブもきつくなって山岳路線の様相に、この豹変ぶりは何度乗っても楽しく「デキ詣で」でも毎回訪れる鉄板の場所になりました。
▲下仁田 1992-12

1992年暮れのこと、何度目かのこの日は雑誌にも登場した、渓谷のような雰囲気を走る地点に向かいます。しかし、千平から道に迷い藪を掻き分けながら徘徊するも同じ地点には辿り着けず・・・数年の間に木々が伸びてしまったのでしょうか。

川面は見えず渓谷美も望めませんが、気を取り直して先ずはデハ250+クハ300の混合編成で練習です。

「ピョー」と甲高い汽笛を鳴らしながら、本命がやってきました。
本日の当番は余り見かけないデキ2です。
▲いずれも千平-下仁田 1992-12

消化不良ながら所期の目的を達し次列車で下仁田へ、狙いはこれまたお決まりの入換え作業です。13:00を少し過ぎて上り電車が発車すると、奥から駅員さんがぞろぞろと出てきて配置につきました。
▲いずれも下仁田 1992-12

続いて低いモータ音と共にデキが動き出します。
この日は停泊していたデキ3も加わって、2両で行ったり来たり。毎回動くパターンが違う気もします。

ちょこまかと動き回るデキ、動かす人達の連携プレーも愉快で1時間の作業は飽きることがありません。デキに合わせて右往左往する管理人以外はギャラリーもおらず、何とも贅沢な貸切ステージです。
▲いずれも下仁田 1992-12

さて、楽しい入換えの後は上り列車で先回り。
上り貨物はどこで撮っても逆光気味になってしまい半ばオマケ的ですが、この日は上州新屋近くに陣取ります。冬の斜光線を浴びながら、先ずは旧西武・451系のデハ100形が、続いて本命がやって来ました。
▲いずれも上州新屋-上州福島 1992-12

締めはこれもお決まりの根小屋。
低い陽に薄雲が掛かってしまい、モノクロに切り替えて何とか仕留めます。
▲南高崎-根小屋 1992-12

こちらは上のカットの「ついでに」撮った流し撮り。
側面の点検蓋が瞬きのように、ほんの一瞬だけ光りました。

露光不足に加え、直前にかかった薄雲のお蔭でせっかくの斜光線も活かせず・・・「没作品」として長らく忘れていた失敗コマでしたが、画像ソフトの恩恵で見られる画になってきました。
▲ソフトで無理やり救出 画質は粗いが何とか見られる

それからというもの、この雪辱を晴らそうと来る度に同じ位置でトライするも、季節・天候・光線・そして何より出会う率の低いデキ2か3でなければならない・・・壁が多すぎてこの一コマに苦労することになりました。

ジーメンスを追った日々 →→ その1 / その2 / その3

▲南高崎-根小屋 1992-12

2020年9月6日

眠れる名作の発掘 その10


▲東武鉄道 曳舟 1959-4

かつて駅や駅前広場は恰好の遊び場であり、学校が退けるやランニング姿に裸足+ズックで走り回って、これに飽きると近くの駄菓子屋や神社へ。50代以上の方なら多少なりともそんな経験があるのではないでしょうか。

・・・という訳で、今回はこの時代の点景をアップしてみます。
時は1959年(昭和34年)、これから襲来する高度成長時代の前夜ともいうべき頃でした。
▲京成曳舟 1959-4

京成電鉄200形は1931年生まれ。
60年代後半からの全金属車体への更新を皮切りに、その後の度重なる機器の交換が功を奏し、新京成に嫁いでからも長く活躍します。

▲いずれも京成曳舟 1959-4

京成の新性能化は早く、あちこち撮り歩く頃には「青電」は既に絶滅危惧種。辛うじて眼にすることができた吊掛け車は200形でした。
▲いずれも日暮里 上:1975-10 下:1974-8

200形の兄弟車、500形もその後更新されて1980年まで在籍しました。
▲京成曳舟 1959-4

管理人も繰り返し観た「三丁目の夕日」を始め、映像の中のこの時代は美化されて良いところばかりが強調されます。

街と人との接点の広さ、希望とエネルギー、寛容と人情。
一方で埃だらけの道、危険と不便、不条理と汚穢・・・記憶の断片を辿ってみると、決して美しい時代ではありません。

しかし、この直後にやって来る怒涛の時代に得たものと失ったもの、果たしてどちらが多いのか、その答えは永久に出ないでしょう。
▲京成曳舟 1959-4