▲帝都高速度交通営団7004 池袋 1975-1
しかし嗜好が明確になっていくにつれ、この姿勢は一気に収縮。
特に管理人の場合はこれがえらく偏ったものとなり、フィルムを何十本も稼いだ路線もあれば小学生時代の数コマ限りもありと、この偏屈さを後悔するも後の祭りでした。
▲何百回も乗った割に記録は・・・?の都営と京急 品川 1975-8
1975年春の白紙ダイヤ改正前夜の頃、変貌する東京・上野口の優等列車を漏らさず見ておこうと東北線上り夜行列車を愛用、同級生と徒党を組んでは首都圏各駅に出没していました。この改正では東京口から20系がほぼ全滅したほか、上野発の特急・急行網も大幅に変わります。
▲いずれも東京 1975-1
▲上野 1975-1
▲いずれも両国 1975-3
▲東京 1975-1
▲秋葉原 1975-1
▲上野 1975-3
▲北千住 1974-8
しかし、5000系をマトモに撮ったのはこれきりでした。
400両超が製造され、最大所帯を誇った5000系は東西線の顔として長く活躍。120両が東葉高速へ、30両が海を渡った以外は他社へ転じることなく引退します。
▲いずれも西船橋 1975-1
この頃憧れの存在だった6000系の流れを汲む新車のデビューですから、少しでも早く見たかったのでしょう。
有楽町線開業に合わせてデビューした7000系は徐々に版図を広げ、横浜でも見られるようになりました。こちらも340両の一大勢力でしたが、先が見えてきたようです。
下のコマは、当時多用していたフラッシュバルブ(ストロボではなく)を一閃させています。今では恥ずかしくてとてもできませんが、一発50円前後とえらく高かった電球を2つも使うとは、この力の入れようには自分ながらオドロキです。
▲いずれも池袋 1975-1
独特のデザインに胸躍らせ、夢中でシャッターを切っていたあの純粋さも記憶の彼方・・・とは何ともはや。
▲上:柏 下:我孫子 いずれも1974-2
1975年だとストロボもかなり普及している時代ですが、あえて閃光電球を使う理由があったのでしょうか。
返信削除モハメイドペーパーさん
返信削除この頃の愛用機(酷使機)のヤシカにはストロボがなく、外付けはまだ高過ぎて子どもには手が出ませんでした。同級生の中にはストロボ内蔵のコンパクト(ピッカリコニカなど)を持った者もいましたが、光量が小さく電車の顔は真っ黒。そこで妥協点として、家にあったフラッシュガンを使ったというオチでした。当時地下鉄を撮る者は殆どおらず、ホームで「ビカッ!」とやると乗客の胡散臭そうな視線の集中砲火を浴びたのは忘れがたい思い出です(笑)。
ぶらんでーとTOーBの看板も懐かしいものあります。
返信削除画像の中で他社へ移っての活躍組もありますが、齢40年迎えてそろそろ引退となるのでしょうね。
ところで非冷房営団5000系で、どうやって持ってきたのか不明な案件あります。
恐らくは東陽向けの改造待ちなのかもしれませんが、和光検車区に置かれていたのです。
ご存じの通りC・Y線共ATC制御方式にて同線での自力回送はできないはず。
考えられるのは牽引ですが、それとも機械扱いで線路閉鎖して自送させたとか?
12号線さん
返信削除デビュー間もない時代を憶えている者には、7000の引退は時間の流れを痛感しますね。同時に自分の老朽化も考えてしまうのですが(笑)。
5000が和光にいたとは初めて聞きましたが、自力が無理ならどうやって運んだのでしょうか。電機代わりに他車のプッシュプル・・・?気になります。