後補機専任という地味な任務ながら、存在感のあったEF59。
戦前の傑作・EF53や56が出自という理由もありますが、最も惹かれたのはその洗練された車体にジャンパ線が這い回るアンバランスさでした。
1980年の夏休み、初の九州への道中で散々寄り道しながらセノハチも最優先でルートに組み入れ・・・といっても貧乏早回り旅ですから半日が限度。しかし、降り立った瀬野構内にぞろぞろと屯ろする壮観さには思わず喉がゴクリと鳴りました。
今にも泣きそうな空模様に暑さも加わって沿線を歩き回る気力も萎えてしまい、駅近くに陣取ることにしました。元EF53+56のコンビが重いモーター音を唸らせながら、ゆっくりと通過して行きます。
こちらは本務機の主役たちです。
EF59の後継機として登場したばかりのEF61-200番台。
しかし機器の按配が悪かったようで製造は中断、EF59はそのお蔭でEF67が登場する1986年まで延命することになりました。
八本松から飛ばしてきたEF5918+10+1+16の4重連回送。
夕闇が迫ってきて露出も限界、そろそろ引き揚げることにします。
さてそれから4年後、展示会用にはるばる浜松までやって来た1号機。
パンタが広島工場お得意のPS22に交換されています。同機は幸運にもスクラップを免れて「碓氷峠鉄道文化むら」で静態保存されました。
後継機の頓挫で図らずも長生きした彼らですが、EF67の誕生と共に引退。前歴が国鉄の記念碑的なカマだっただけに、もう少し後の時代であったら動態保存されていたかも知れません。
▲瀬野 1980-9
自分が訪れたのはEF59引退間際でした。機関区を訪れると職員のおじさんがデッキに立たせて写真を撮ってくれました。当時は嫌な思いをさせられた職員もいたけど優しい親切な職員の方が多かったですよね。
返信削除てつよしさん
返信削除この時は問題なく区内に立ち入ることができましたが、当時の国鉄は場所によって絶対不可というところも多かったですね。宇都宮・高崎機関区などはいつも「いいよ」とスルーで、機関車にぶら下がっても何も言いませんでした。