2021年9月5日

工場街の単行電車

▲鶴見線クモハ12052 大川 1992-8

1992年の「撮影三昧ご乱行記録」から、本日は鶴見線をアップしてみます。
かつて北は仙石線から南は宇部・小野田線まで広く分布した17m国電でしたが、1970年代初頭から急速に生息域を減らしていきます。最後の砦となったのは以外にも首都圏でした。

1973年春、首都圏の「王国」だった鶴見線から一気に撤退かと思いきや、急カーブのお蔭でしぶとく延命したのが2両のクモハ12。1.0kmの大川支線に押し込められながらも、坦々と日々の任務をこなしていました。
▲クモハ12052 大川 1992-8

そのまま同支線で生涯を終えるとばかり思っていましたが、1985年に閑散時間帯用として白羽の矢が立ち本線に登場、引退前の花道を飾ることになりました。

こちらは武蔵白石までの区間列車。
アングルも立入りスペースも限られる支線に比べると、本線はやはり自由度が増します。

▲安善-武蔵白石 1992-8

武蔵白石で一休み。
2両の仲間のうち12052はリベットが目立つ厳つい風体です。側面の保護棒は1991年から取り付けられましたが、やはり目立ちますね。

▲武蔵白石 1992-8

大川を出た直通電車が武蔵白石のポイントを渡って行きます。
改めてフィルムを見返すと電車が真っ黒なカットばかりが目立ちますが、光線がどうにも扱いにくい事情によるものでした。


▲いずれも大川-武蔵白石 1992-8

鶴見駅で発車待ち。
クモハ12052とは巡り合わせが良かったのか、毎回会えました。



▲いずれも鶴見 1992-8

海芝浦行が鶴見を発車。
▲鶴見-国道 1992-8

昼間の任務が終わると大川支線へ舞い戻って来ました。
ラッシュ時間帯も終わり、誰もいなくなった武蔵白石で発車を待ちます。


▲武蔵白石 1992-8

大川に到着。
元から本数の少なかった支線でしたが、この頃は毎時1本程度の列車がありました。
現在は平日朝夕だけの1日9本、土休日に至っては1日3本しかなく、文字どおり都会の超ローカル線になってしまいました。
▲武蔵白石-大川 1992-8

夜の帳が下りた大川で発車を待つクモハ12052。乗客の姿はありませんでした。


▲大川 1992-8

さて彼ら2両、本線に躍り出て大車輪の活躍をするも長くは続かず、1994年に古巣に戻り1.0kmを行ったり来たりの倹しい生活を再開します。しかしこちらも安住の地とはならず、96年に20m車が入線するや、彼らに追われる形で長く勤めた職場を去ることになりました。

そしてこれが、営業線から17m国電が潰えた瞬間でした。
▲鶴見 1992-8

2 件のコメント:

  1. モハメイドペーパー2021年9月5日 15:51

     このクモハ12が改造されたのは、鶴見線全体で昼間に単行運転とするためで、ラッシュ時用に1M2Tの付属編成も用意されましたが、昼間の単行運転は不評でクモハ12は大川支線専用となりました。晩年の保護棒はそこまでやる必要があったのかなと思います。
     他に首都圏で単行運転というと下河原線のクモハ40が有名です。信越本線の高崎~横川間が電化された当初、この区間用にクモハ40が2両配置され、昼間は単行で走っていました。

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  2. モハメイドペーパーさん

    この分野はどうも無知蒙昧のため、17m車全盛時代の鶴見線に単行があることも知りませんでした(苦笑)。調べてみたら可部線や宇部・小野田線用も同様の事情で改造されたのですね。保護棒は何ともうーむで、完全に「過保護棒」だった気がします。

    無知蒙昧のついでに、信越線のクモハ40が単行で走っていたことも初めて知りました。こちらは地元両毛線で70系と併結していたので馴染みの電車でした。下河原線は小学生時代、隔月で買っていた(毎月買えるほどの小遣いがなかった)鉄道ファン誌に廃止のニュースが小さく載っていたのを思い出します。当時は「東京競馬場前」が日本一長い駅名でしたね。

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