2019年8月11日

ED38の終焉 その1

▲秩父鉄道ED381 広瀬河原 1988-11

駿足揃いの阪和電鉄に導入された戦前の傑作、ED38(ロコ1000)。
その独創的な風貌と併せて、回生ブレーキや総括制御、速度性能といった機能面でも革新的な機関車でした。

時は1988年晩秋のこと、雑誌の「私鉄電機特集」を繰っていた手が止まりました。
そこには休車後雨曝しのまま留置されるED381の痛々しい姿。ついに走行シーンを拝むことなく最期を迎えてしまったと臍を噛むと同時に、せめてスクラップになる前に表敬訪問しておこうと即断、早速その週末に6×7版を抱えて広瀬川原へ向かいます。
▲熊谷 1974-10
 
先ずはこちらも退役間もないデハ100形。
あちこちに佇んでいる姿に惹かれますが逃げる訳でもなし、後でゆっくり見て回ることにします。

さて、お目当てのED381は建屋の隣、架線のない側線にいました。
雑誌で見たよりも随分と色褪せ、満身創痍の様相。僚機の3号機は一足先の1981年に引退、早くから部品取り用だった2号機は80年に消えてしまい、まさに孤高の存在になっていました。
▲いずれも広瀬川原 1988-11
 
ほぼ同時期に引退したWHのデキ1とデキ2が手を繋いでいました。
無理やり畳まれたようなデキ2のパンタが痛々しく、シャッターを押す手が逡巡します。
▲いずれも広瀬川原 1988-11

第一線で活躍中だったデキ100形も現在は半数(4両)に数を減らしています。
こちらは西武からやってきた入換え機、D201。
現在は同じ西武OBのD15がその任に当たっています。
▲いずれも広瀬川原 1988-11

呆気なく目的を果たしてしまいましたが、そそられるデンシャがまだ其処彼処に転がっていました。
・・・次回に続きます。
▲熊谷 1974-10

6 件のコメント:

  1. ティーレマンファン2019年8月12日 11:01

    ワンパターンのコメントでスミマセン

    最後の写真のバックに写っているタンク車が気になって仕方ありません。日本陸運産業の社紋を付けたタンク車はタキ3000?当時は熊谷駅で国鉄から貨物を継承していたんでしたっけ?
    機関車の後ろに写っているタンク車は……?

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  2. モハメイドペーパー2019年8月13日 16:50

     軽快といっていいのか、微妙なスタイルだと思います。車体長の割に非力で、秩父鉄道ではあまり使い勝手がよくなかったようですね。

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  3. ティーレマンファンさん

    当時の秩父鉄道はメインの鉱石列車以外にも一般貨物が数多く走っていましたから、貨車のバラエティも非常に豊富でした。秩父名物のテキやホキなどもいましたが、残念ながらこちらの記録は木造ワフくらいです。タキの正体は分かりませんが、当時の熊谷では受け渡しをしていた筈です。

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  4. モハメイドペーパーさん

    腰高スタイルから「足長おじさん」なるあだ名も拝命しましたね。非力で鉱石列車には使えませんでしたが、一般貨物の小運転には重宝していたようです。速達性最優先の阪和にはパワーは二の次だったのでしょうね。個性的なデザインに加えて、窓が大きくなった3号機が個人的には好みでした。

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  5.  阪和はもともと待避線の有効長が短い上に設置駅が少なく、貨物も短編成でちょこちょこ走るしか無かったですからね(短い列車でもEF52や58重連で加速を稼いだり、全長が短いED60が重用されたのもそのため)。

     秩父線内に入るタキ車はセメント焼成用燃料のC重油がメインなので、石油類(黒油)専用のタキ1500(35t積み)あるいはタキ2100(30t積み)でしょうか? 武川には油槽所の専用線があったので、タキ3000等のガソリン(白油)専用車の可能性もありますが、NRSの白油専用車はどちらかと言うと米軍以外は化成品の輸送に転用されていたことが多いので、多分前者でしょう。

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  6. 雪うさぎさん

    ED38が非力で済んだのは阪和の施設の事情もあった訳ですね。
    それからタキ車の詳細な解説、有難うございます。この辺の見識は流石ですね。
    何となく見ているうちに消えてしまった一般貨物ですが、腰を入れて撮る頃にはヲキばかりになってしまい、背後に写り込んでいるテキやスム、ホキを見て何度悔やんだか分かりません。

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