▲北陸鉄道モハ3002 軽海-鵜川遊泉寺 1981-8
大学鉄研時代は年3度の「合宿」がありました。
といっても運動部のようにストイックな集団特訓を行う訳ではなく、合宿地にしていた国民宿舎で乱痴気騒ぎをしたかと思うと、翌日は青白い顔をしながら車庫や運転所などの施設見学を実施、というのが定番コースでした。
合宿地へは現地集合ですからそれまでは全く自由気まま、夜行列車や周遊券をフルに使って散々回り道をしながら、集合場所に辿り着く者がほとんどでした。この時は七尾線の羽咋でしたから、管理人としては北陸各私鉄を回わない訳にはいきません。
▲小松 1981-8
さて、朝方スルーした西金沢へ舞い戻って来ました。
側線では元名鉄のモハ3700形がくたびれた風体を晒しています。
揖斐線でもお馴染みのモ700形ですが、仲間の4両が1964年に嫁いで来ました。
しかし能美線廃止によって余剰のモハ3740・3770形がやって来ると休車に、そのまま復活することなく1987年に引退してしまいます。
何とも厳しいラッセルを纏ったED201。
南海や豊橋鉄道に仲間がいた「木南型」で、今や唯一の現存機となりました。現在も除雪用としてこの姿で待機していますが、イベント時にも駆り出されます。
丸みを帯びた車体に、ゴツイTR台車がアンバランスなED301。
この曰くつきの台車については既に数多くが発表されていますが、メーカーの東洋工機が国鉄から調達した黎明期の電気式気動車(キハニ36450形)のお古を履かせたもの、と言われています。
バラストを積んだホム1、これがまた年代物で1914年製。
九州は小倉鉄道セム1として誕生、その後国鉄・近江鉄道を経て1967年にやって来ました。
休車中のクハ1721。
このまま廃車と思いきや、僚車クハ1724が事故廃車になって制御車が不足に、こちらに白羽の矢が立ち復活を遂げることになります。
▲いずれも新西金沢 1981-8
続いては小松へ移動、小松線に初乗車です。
小さな車庫を覗いていると、鈴なりの客を乗せたモハ3003が現れました。
モハ3000形は1949年、金名線電化時に誕生した15m級の小型車。
しかし名鉄OBの3700形が投入されると全5両が揃って金石線に転出、更に同線廃止後はこれまたお揃いで当線にやって来ました。
モハ3004の前面窓が原型のままだったり、事故復旧で3005が別物のようになったりと小世帯ながらバラエティに富んでいます。
▲いずれも小松 1981-8
沿線風景は至って平凡、田圃や住宅地の混在する中を6km走ったかと思うと終点・鵜川遊泉寺に到着。無人化久しい駅舎は荒れ果て、廃屋のようでした。
▲いずれも鵜川遊泉寺 1981-8
唯一の撮影ポイントはこちら、鵜川遊泉寺から戻って5分の梯(かけはし)川橋梁。
モハ3003が行ったり来たりですが、ここで2本粘ってみました。
▲いずれも軽海-鵜川遊泉寺 1981-8
やはりすぐに飽きてしまい、空模様が怪しくなってきたのでこれで引き揚げることにします。これにて北鉄は終了、浅野川線以外の主要メンバーを取敢えず押さえて満足の1日ながら、金名線には乗れぬままでした。
浅野川線も未訪だし、またすぐに来るだろうと小松を後にしましたが、モタモタしているうちに1987年に金名線が廃止、更に90年には東急7000系に席巻されてしまい、足が遠のいてしまいました。
1984年の小松線再訪 →→ こちら
・・・しつこくまだ続きます。
▲小松 1981-8
小松線は尾小屋鉄道のついででした。
返信削除一度もちゃんと撮影した事がなかったなぁ
尾小屋を撮影した帰りに吉竹駅から
小松線の打越?まで歩いて電車に乗った事もありました。
にぶろくさん
返信削除尾小屋が間に合っていたら、私もきっとこちらには見向きもしなかったと思います。
私は何故か2回機会がありましたが、沿線風景はこれといって特徴もないですから、2回目は鵜川遊泉寺から加賀八幡まで駅舎をスナップしながら歩いたりしました。打越と尾小屋の吉竹は近かったんですね。