デンシャに初めてカメラを向けて1ヶ月。
家から勝手に持ち出したカメラを自転車のカゴを放り込み、両毛線や東武佐野線を撮り回るのに慣れてくると、当然ながら他のデンシャにもシャッターを切りたくなってきます。そこで同級生らと策動、初の「遠出」をしようと週末に最寄駅に集合することになりました。
子どもらだけでの撮影行ですから、その緊張感と高揚感は学校の遠足など遠く及びません。生憎の雨模様ながら、先ずは見慣れたこちらからスナップ開始です。
▲佐野 1973-7
初の「遠征先」は宇都宮。
最寄駅から1時間ちょっとですから何てことはありませんが、小学生が自分らだけでプランを練って時刻を調べ、窓口氏から切符を買って列車に乗るには充分な行程でした。
先ずは15分だけ乗って栃木で下車。
当時の栃木駅は貨物ホームや側線のある広い構内を有し、黒い貨車があちこちに停まっていました。東武日光線はそこに間借りするように、片隅に慎ましく島式ホームが1本あるだけでした。
▲いずれも栃木 1973-7
乗換え駅の小山。
東北線の列車を待つ間、ホームからは色々なデンシャを眼にすることができました。ここの立食いスタンド「きそば」が廃業間際に大層な繁盛ぶりを見せたのは記憶に新しいですが、この頃はかけ蕎麦が1杯80円、天ぷらを載せると100円でした。
2枚目、401系の後ろにいるのは真岡線直通の10系キハでしょうか。
構内外れには日本製粉の工場があり、DD13がせわしく入換えをしている風景も見られました。
▲いずれも小山 1973-7
散々寄道をしながら、昼近くになってようやく宇都宮着。
東北線の主役、115系はまだ大目玉の天下でした。画面右から2番目のおじさんは赤帽でしょうか。
▲宇都宮 1973-7
初めて間近で見た特急は485系「ひばり」。
写り込んでいる人物は同行の同級生で、野球帽にトレパン(体育の授業に穿いていた)という出で立ちが当時の定番でした。
右から2番目の彼が構えているのは年代物の2眼レフで、上から覗くファインダーがえらく格好良く見えたのを憶えています。管理人のやつもそうでしたが、当時のカメラは露出もピントも勿論フィルム装填も全て手動。当時の鉄道少年はそうした道具をいつの間にやら使いこなしていたのでしょう。
▲いずれも宇都宮 1973-7
烏山線のキハ10。
ミニスカにパンタロン(→死語)と、乗客の服装に時代を感じます。
5番線ホームからは宇都宮運転所に屯する電機を眺めることができました。EF58やEF15、EF65がうんざりするほどやって来る時代でした。
5番線の上野方からの風景。
既に一線からは外れていたものの、荷物列車や臨時急行にまだまだ活躍していたEF56やEF57が連なって昼寝をしていました。
これだけでも車両図鑑ができそうなくらい、役者が揃ってますね。EF57が注目され始めた頃で、掃いて捨てるほどいたEF58なんかは、来れば撮っておこうかという程度でした。
返信削除はじめまして。いつも楽しく、なつかしく拝読いたしております。貴ブログを拝読するにつけ、中学時代からの記録をしておかなかったことを後悔しています。気動車の犬吠やデカ目のクモユニ。後悔先に立たずとはこのことです。貴重な記録、ありがとうございます。
返信削除モハメイドペーパーさん
返信削除国鉄の主要駅にいるとフィルム1本すぐ終わりそうなくらい、バラエティ豊かな面々がやって来た時代でしたね。
東北線ではゴハチが来ると「ハズレ」みたいな空気がありましたが、この頃は何でも写す純真な鉄道少年でした。成長するにつれ敬遠するように、しかし引退の足音が聞こえてくるやまた撮り始めましたから現金なものです。
str.yokoさん
返信削除ご覧いただき有難うございます。
私も地方私鉄のオンボロ車両求めて全国を放浪するようになってからは被写体の選り好みをするようになり、ありふれた風景を撮り逃してしまったのが後悔の残るところです。何にでもレンズを向けていた子供時代の純粋さはいつの時代も必要だと最近になって痛感しています。
新幹線高架ができる前の各駅、空が広く感じますね。
返信削除その新幹線が開通した後も宇都宮駅ではEF65がまとまって屯していた姿をホームから眺める事できたのですが、最近訪れてそれらも姿消したようで跡地はマンションになったり例のLRT敷設に使われたりしたのでしょうね。
12号線さん
返信削除巨大な主要駅も、新幹線が通り高架化されたりすると、例外なく狭苦しく小ぢんまりしてしまいますね。大抵はマンション、余った空地にはメガソーラーがお決まりでしょうか。ただ宇都宮はLRTという明るい話題があり、「衰退する地方都市」とは違う方向性に向かっているようでそこは一安心ですね。