▲福井鉄道モハ121-1 西武生 1981-9
さて朝から猛烈な暑さの中、武生新から歩き出します。
しかし、暑さにめっぽう弱い同行の友人は西武生に着くやベンチにヘタリ込み、そのまま横になってしまいました。仕方ないので、一人で車庫を覗いて回ります。
先ずは最も見たかったこちら、デキ11からです。
見た目のとおり元は電動貨車で、1923年製の福武電鉄デワ1という代物。戦後ボギー化など大改造を受け、更に79年に機関車として転生します。
デキの隣にいたのは倉庫代わりでしょうか、名鉄OBの初代140形・モハ141。
揖斐線でもお馴染みのモ700形で、元瀬戸電のキハとコンビを組んでいました。
連結側はご覧の通りありゃーな状態。
なぜか名鉄時代の車番が露わになっています。
2代目140形は、名鉄900形と長野電鉄300形という、世代も出自も全く異なるデンシャを合体させて誕生。大掛かりな改造がされており、一見しただけでは種車が分かりません。
名鉄では瀬戸線の昇圧、長電は長野駅地下化でたまたま時期が重なり、1978年に揃ってこちらへ嫁いできた訳ですが、それにしても奇想天外な組み合わせではあります。
80形のルーツは南海タマゴ形の電5形。
戦後国鉄63系を割り当てられた南海電鉄が、その見返りとして地方へ放出した電車の一つでした。
1956年にこの車体に載せ替えられ、その後もカルダン化されたり冷房が載せられたりして、新車に近い姿になりつつ2006年まで長命を保ちます。
3両の電機のうち、最古参は1935年生まれのデキ1。
81年の南越線廃止で引退に近い状態に、その後殆ど動くことなく86年に除籍されます。
戦後製のデキ2は大人しいスタイルで好感が持てます。
三井三池が発注したのを融通して貰ったと言われていますが、戦後のドタバタ状況下ではこうした例も珍しくありませんでした。
車庫の中にいた120形が顔を出してきました。
120形は戦後初の完全な新車で、いわゆる省規格型。当初は単行での運用でしたが、1972年にクハ150形(元名鉄3000形)を相方に固定編成化されます。毛色の異なる者同士を合体してしまう風土はこの頃からあった訳ですね。
▲いずれも西武生 1981-9
一通り撮り終えて駅に戻ってみると、同伴者氏は依然として待合室ベンチに臥したまま。
「120形が外に出てるぞ」と振ってみますが、「俺はいい」と冷凍マグロのようにピクリとも動きませんでした。
さて、締めはこちらへ向かいます。
暑さに加え、朝から碌なものを食っていないので管理人もスタミナが切れ、交差点の片隅から安直にシャッターを切ります。2代目140形のうち、異色の143編成は鯖浦電鉄モハ42+名鉄900形という組み合わせでした。
▲いずれも市役所前 1981-9
これにて福井鉄道も無事に終了、合宿の集合場所・七尾線羽咋へ向かうことにします。
写真が残っていないのでこの後の記憶はスッポリと抜けていますが、例によって国民宿舎で乱痴気騒動を起こし、後は正体もなくひたすら眠ったのでしょう。
翌日は生気を消失した顔で金沢運転所を見学、そのときの成果がこちらです。
ここには戦前形もいないし、見たような国鉄車両ばかりですから力も入りませんが、そんな中、目を見張ったのが異形の架線検測車・クモヤ494形。相方のクモヤ495と共に1編成しか製造されなかった孤高の存在でした。
▲いずれも金沢運転所 1981-9
こちらは途中の七尾線車中から。
スロ改造のオハ41が視界に入ったので、ブレながらも無理やりシャッターを押しました。20m・2ドアの超ロングシートは壮観だったでしょうね。
▲津幡 1981-9
金沢の端から出ていた七尾線もスナップ。
国鉄ターミナルらしい広い構内があったこの駅も、もうちょっとマトモに記録しておけば良いものを、どうも力が入っていないようです。
▲金沢 1981-9
さて、締めは当時の福井鉄道の顔・200形です。
1960年の登場以来、50年以上に亘り1編成も欠けることなく急行運用をこなしてきた功労者で、晩年リバイバル塗装になってからは俄然人気者になりました。
最後に残された203編成は車庫でくたびれた姿を晒していましたが、クラウドファンディングで21年度中を目途に整備される由。動態でないのは残念ながら、スクラップを免れて一安心といったところでしょうか。
延々と引っ張ってきた81年北陸私鉄めぐり、これにて終了です。
最後までご覧頂き、ありがとうございました(礼)。
▲市役所前 1981-9
鉄研の合宿集合場所が富山でも金沢でもなく
返信削除羽咋というのが変わってますね(笑)。
北陸鉄道の廃線跡巡りでもしたのでしょうか
七尾線の列車、ホームに郵袋が積まれていますねぇ~
返信削除私の地元でも、クモユニ74が連結されている両毛線の列車や、東武鉄道の荷物車などが見られました。
懐かしいなぁ~
にぶろくさん
返信削除合宿地は「安くて大勢が泊まれる」場所に限られるため、国民宿舎が定番でした。
大抵は駅から遠い不便な場所にあるので、この時も金沢運転所から一番近い場所だったのでしょう。男ばかりの大集団で乱痴気騒ぎをした挙句色んなものを壊したりするので、一度泊まった宿舎は二度と使えないという話が伝説のように残っています(笑)。
ティーレマンマニアさん
返信削除両毛線のクモユニ74や東武のモニは私も毎日のように見ていました。
特に両毛線は基本の4連+吾妻線乗入れ40系2連+クモユニという壮観な編成もありましたね。
荷降ろしの風景は当たり前過ぎて碌に記録できなかったのが残念でなりません。
北陸の鉄研合宿で思い出した記憶です。
返信削除尾小屋鉄道廃止までの1週間、国鉄小松駅の待合室は
全国の鉄研合同合宿のようになっていました。
何となく仕切っていたのは東京の大学鉄研グループ(大学名は忘れました)。
さすがに飲酒しての乱痴気騒ぎはなかったですけど(笑)。
人数の少ない高校鉄研はおとなしくしている感じで、
我々中学生は完全に子供扱い(実際こどもですが・笑)。
でも大学生のお兄さん達に近くの定食屋に連れて行ってもらったり
翌日の臨時列車情報を教えてもらったり、
こども鉄研としては楽しい経験でした。
そんな小松駅に中学3年生が5泊もしたのは
完全に家出少年でした(汗)
長文失礼しました。
1982年夏に西武生の車庫を初めて見た際に、一番目立っていたのは青一色塗装のデキ11でしたが、やはり暑かったです(笑)。福井鉄道の車両はフリーランスの鉄道模型みたいで、出自を聞いても原形を思い浮かべるのが難しいですね。北陸はライトレール的な独自文化の鉄道が多いですが、郊外電車なのに路上からステップで乗り降りする光景は驚きでした。
返信削除福井の200形はクロスシートの間隔がオハ61並みに狭く、後に僅かですが拡げたので、窓割と少しずれていました。私が1990年代に行った時は、元静鉄の300形が主力でした。
返信削除にぶろくさん
返信削除いやあ、私もその中で合宿したかったです。
尾小屋はタッチの差で間に合わず未だ臍を噛んでいる路線の一つですから、1週間どころか半年粘りたい心境です。
しかしコンビニもスーパー銭湯もない時代ですから、駅寝5連泊とは豪傑ですね。
国民宿舎や夜行列車で折り返しなど、まだまだ甘いと言わざるを得ません(笑)。
緑の猫さん
返信削除大型車が道路を伸し歩く姿を初めて見たときは度肝を抜かれ、新鮮というより痛快な感じがしました。
とにかく出自も経歴も違う電車をくっつけてしまう風土が楽しく、前面が不恰好なことなどは全く気になりませんね。これは北鉄もそうですが、電動貨車が堂々と「機関車」を名乗っているところもまたしかりですね。
モハメイドペーパーさん
返信削除200形のデビューは快適性は二の次の時代でしたから、クロスシートであるだけでも良しとすべきなのでしょうね。オハ61みたいに背もたれが木造でないだけまだマシかと(笑)。
この頃は200形より古い電車に眼が行ってしまい、このお手軽スナップしか撮っていない体たらくです。この後ド派手な広告電車になってからはすっかり疎遠に、しかしリバイバル塗装になるや手の平返しのように通い詰めたのですから現金なものです(長電2000形でもそうでした)。